江戸時代において、徳川将軍家の次に格式を有していた徳川御三家ですが、幕末では何をしていたのか?について気になったことはありませんか?

私も大河ドラマなどを見ていて、もっと知りたい!と何度か思ったことがあります。


そこで今回は「徳川御三家の幕末の動向」について、尾張藩、紀伊藩、水戸藩が幕末に何をしたいのかをわかりやすく解説します!

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幕末の尾張藩の動向について


まず現在の愛知県にあった「尾張藩」について解説していきます。

尾張藩は徳川家康の9男、徳川義直が初代を務めた御三家の1つです。
紀伊藩出身の徳川吉宗が8代将軍に就任するまで「御三家の筆頭」でした。

しかし、吉宗が御三卿を作ってからは、その存在感を失っていきます。
幕府ともたびたび対立。10代の斉朝から13代の慶臧までの間、吉宗の血統が強い人物を尾張藩の跡継ぎに押し付けられます。御三家の1つである尾張藩への圧力を強め、支配しようとしたんですね。

※参照:徳川吉宗のプロフィールや評価とは。本当に暴れん坊だった?

キーパーソンは14代当主 徳川慶勝

そんな負けっぱなしの尾張藩。
幕府に言われる通りじゃなくて、自分たちで将軍を擁立したい!」と家臣を中心に思うようになります。

そんな中、14代藩主に就任したのが徳川慶勝です。
慶勝は「高須四兄弟」のうちの1人で、とても優秀な人物とされていました。

ちなみにこの「高須四兄弟」には、後に会津藩主を務める松平容保も含まれています。

優秀な人物を藩主に迎えた尾張藩は、慶勝を中心に次々と幕政を改革。
「尾張藩の権威を取り戻そう!」と意気込んでいます。


ちょうどこの頃、幕府では「外国との関り」が大きな問題となっていました。

話題の中心は、1858年に井伊直弼が結んだ「日米修好通商条約」。
尊王攘夷派(開国反対派)は「なんで天皇陛下の許可なく、勝手に条約を結んでるんだ!」とブチ切れます。

慶勝もこの開国反対派の1人です。
「開国派:井伊直弼」と「開国反対派」の争いですね。

この争いの結果は、井伊直弼による大量粛清という結果で幕をとじました。
かの有名な「安政の大獄」です!


慶勝もその1人で、直弼により蟄居を命じられることになります。
ただその後、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、慶勝は尾張藩主に復帰しました。

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長州征伐における慶勝の行動は?

そんな中、1864年にある事件が勃発します。
それが「第一次長州征伐」です。

幕府・朝廷に反抗した長州を幕府が倒そうとしたんですね。

慶勝は幕府側として、長州と戦います。

この時慶勝は、西郷吉之助(のちの西郷隆盛)を大参謀にしました。
結果は長州が幕府に従う旨を示したため、幕府・朝廷側の勝利に終わります。

しかし、再び幕府に向かって長州が反乱を起こした(第二次長州征伐)では、幕府による出兵要請を、慶勝はなんと拒否。
理由は「戦はしない方がいい」という慶勝の論理だそうですが、その真相は不明です。
どちらにしろ、幕府の命に背きます。

※参照:長州藩の場所や家紋について解説。倒幕を行った理由とは?

さらに1867年、15代将軍徳川慶喜の大政奉還を後押しした慶勝は、朝廷の命を受け、尾張藩にいる「幕府派」の家臣を一掃してしまいます。
つまり「御三家の1つであった尾張藩が、江戸幕府を敵に回した」ということです。


尾張藩のこの行動は、幕府と朝廷軍が戦った「戊辰戦争」に大きな影響を与えます。
具体的には「東海道・中山道にいる大名・旗本を説得し、朝廷軍が江戸に進軍しやすいようにした」のです。

このおかげで朝廷軍は、楽に慶喜がいる江戸に進軍することができました。

最初は「尊王攘夷派として戦っていた尾張藩ですが、最終的には江戸幕府を滅ぼすことに一役買った」というのは、本当に皮肉なことですね。

尾張藩の幕末の動向まとめ

幕末の尾張藩の動向をまとめると、以下のようになります。

・吉宗が8代将軍になった後、幕府が尾張藩に圧力をかけるようになった
・尾張藩14代藩主慶勝は非常に優秀であったが、「安政の大獄」で蟄居を命じられる
・第一次長州征伐では軍を率いたが、第二次長州征伐では幕府の命を拒否
・大政奉還後は、朝廷の命に従い、討幕派の味方をする


「御三家筆頭」と言われる尾張藩ですが、将軍を1人も出すことなく終わってしまったのは少し意外ですね。

幕末の紀伊藩の動向について


次に紀伊藩の幕末の動向です。

紀伊藩は現在の和歌山県にあった、徳川御三家の1つです。
前述した、8代将軍徳川吉宗、更に14代の家茂を輩出した藩ですね。

紀伊藩は御三卿を含めて将軍を多く輩出したため、徳川将軍家と密接な関係にありました。
有力外様大名の養子となった人物も少なくありません。

藩主・徳川茂承の動向は?

1858年、紀伊藩主慶福(のちの家茂)が14代将軍に就任すると、紀州徳川家の一族である西条松平家出身の徳川茂承(もちつぐ)が紀伊藩主になります。

1866年には幕府VS長州の「第二次長州征伐」が発生しました。この時、藩主の茂承は先鋒総督に命じられます。
ただこの「第二次長州征伐」の最中に14代将軍家茂が亡くなったため、休戦協定が結ばれることに。
実際は「長州側の勝利」で、幕府の力の衰えは隠せませんでした。

その後1867年の「戊辰戦争」の際には、戦争で敗れた幕府側の兵士が、御三家の1つである紀伊藩に大量に逃れてきます。
そのため紀伊藩は、新政府軍により侵攻を受けそうになりました。

しかし紀伊藩主徳川茂承が「朝廷に逆らう気はありません。幕府を討伐するために、兵士とお金を差し上げます」と新幕府軍に従う意向を示し、侵攻を免れます。


こうして紀伊藩は新政府軍に降伏します。
将軍家と密接な関係にあったといえども、時代の流れには逆らえなかったということでしょう。

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紀伊藩の幕末の動向まとめ

幕末の紀伊藩の動向をまとめると、以下のようになります。

・紀伊藩は吉宗や家茂を輩出するなど、徳川将軍家と密接な関係があった
・1866年の長州征伐では、幕府軍の先鋒として軍を率いた
・戊辰戦争の際には幕府軍の兵士が逃れてくるが、新政府軍にお金・兵士を提供し従う意思を見せる

幕末の水戸藩の動向について


最後に幕末の水戸藩の動向について解説していきます。

水戸藩は、現在の茨城県にあった御三家の1つです。ドラマ「水戸黄門」のモデルとなった藩ですね。

水戸学と尊王攘夷思想

幕末の水戸藩を率いたのが「徳川斉昭」です。大河ドラマ「青天を衝け」では、竹中直人さんがその役を演じましたね。

水戸藩には藩校「弘道館」というものがあり、藩士に向けて教育を行っていました。
弘道館で学んだ藩士として有名なのが「藤田東湖」「会沢正志斎」「武田耕雲斎」などです。
藤田東湖は本居宣長の国学を取り入れ、それを「水戸学」として大成させます。

この「水戸学」「国学」的な考え方が、「尊王攘夷思想」に繋がっていくのです。


尊王攘夷」というのは、簡単にいうと「天皇を尊び、外国勢力を排除する」という思想のことです。
この時代は前述したように、井伊直弼が「日米修好通商条約」を結び、尊王攘夷派から批判が巻き起こっていました。
条約の締結に「天皇の許可が無かった」ので、尊王攘夷派である水戸藩士はブチ切れるのです。

※参照:井伊直弼の人物像について。周囲の評判やお茶の逸話とは?


しかし、権力者井伊直弼も黙っていません。
1859年には、敵対する井伊直弼により水戸藩主徳川斉昭・その子供の一橋慶喜(のちの徳川慶喜)が蟄居を命じられます。
この事件は「安政の大獄」と呼ばれます。

しかし主君がないがしろにされた水戸藩士、ただ黙っているわけにもいきません。
1860年の3月、水戸藩士が井伊直弼を江戸城近くにて暗殺してしまうのです。
これを「桜田門外の変」と呼びます。

藩内抗争で疲弊。幕政にも関与できず

「尊敬する主君の仇を討った」水戸の志士達。

しかしこの年の9月に斉昭が死去してしまいます。

そしてこの後、水戸藩は幕政における影響力をどんどん失っていきます。


というのも尊王攘夷思想を学んだ水戸藩士たちは、血の気の多い人が多く、たびたび暴発してしまうからです。
具体的には「天狗党の乱」や「弘道館戦争」など。
水戸藩の中にも「穏健派」と「強硬派」の対立があり、疲弊してしまうのですね。

この過程で、藩内の有力な人材が処刑、追放などの処罰を受けてしまいます。
斉昭の跡を継いだ10代藩主・徳川慶篤には、この状態を鎮めるだけの力はありませんでした。

その影響もあり、尊王攘夷派の志士たちは、尊敬する斉昭の子、慶喜が15代将軍に就任したのにも関わらず、幕政には関わることができなくなっていきました。

※参照:徳川慶喜ってどんな人?年表や大政奉還を小学生向けに解説!


さらに1867年、戊辰戦争の際には水戸藩は新政府軍の味方となってしまいます。
尊王攘夷思想というのは「天皇を尊ぶ」思想のため、当然と言えば当然かもしれませんが・・・

水戸藩の幕末の動向まとめ

幕末の水戸藩の動向をまとめると、以下のようになります。

・水戸藩では国学・水戸学から派生した「尊王攘夷思想」が強かった
・徳川斉昭は尊王攘夷の最先鋒にいたが、安政の大獄により幽閉される
・斉昭の子慶喜が幕府で力を持つようになっても、幕政にはあまり関われず
・水戸藩氏は天狗党の乱など、数々の挙兵事件を起こす

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まとめ


徳川御三家の幕末の動向」というテーマで、御三家が幕末に何をしたのかを見ていきました。
御三家に共通して言えることは「最後の最後で幕府の味方をしなかった」ということです。

もしかしたら、幕府に近かったからこそ「幕府の力は新政府軍に敵わない」ということが分かっていたのかもしれない、なんてことを思ってしまいます。

なお、以下の記事では徳川御三家が明治以降どうなったのか?を解説しています。よかったら一度見てみてくださいね。

※参照:徳川御三家の現在とは。尾張・紀伊・水戸の末裔はどんな人?