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細川忠興は、絶世の美女とも言われた細川ガラシャを妻に持ち、肥後細川家の礎を築いた人物です。そんな忠興ですが、織田信長から非常に目をかけられていた事で知られており、数々のエピソードが残されています。


今回は、それらを通して信長と忠興の関係を明らかにし、家紋や甲冑についてもご紹介します。
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細川忠興と織田信長の関係とは?


細川忠興の人生にとって、織田信長は非常に大きな存在であったと思われます。

1570年代の細川忠興は信長の嫡男、織田信忠に仕えており、その下で松永久秀の信貴山城攻めで奮戦したのですが、その差異、信長より直筆の感情を受け取っています。
実はこの感状、信長が自分で書いた直筆の手紙の中で唯一残っているものなのです。通常、信長が手紙などを書く際は側近たちが代わりに書いていたのですが、忠興があげた手柄に対しては自ら筆を取っているのです。信長にとって、忠興が活躍した事はとても嬉しかったのでしょうね。


また、細川忠興と言えば妻の細川ガラシャが有名ですが、2人の結婚の仲介を行ったのも信長でした。この事から、細川忠興は信長からかなり好待遇を受けていたことがわかります。

※参照:細川ガラシャは美人だった?年表や辞世の句の意味について!


関ヶ原の戦いを経て福岡の小倉藩主となってからも、忠興の信長に対する敬意は変わらなかったようです。1614年、忠興は信長の33回忌を居城で行っているだけでなく、信長をとむらうため、彼の法号「総見院殿泰巌信齢大居士」を取って「泰巌寺」を設立しています。この泰巌寺はもともと小倉にあったのですが、忠興が熊本に加増転封される際、寺を熊本へ移している程です。

忠興にとっての信長は、ある種の神様みたいな存在だったのかもしれませんね。

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細川忠興の家紋「九曜」によって江戸時代に事件が発生?


また、細川忠興と織田信長の関係を踏まえる上で、忠興と肥後細川家の家紋「九曜」についても触れておく必要があります。

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この家紋は、もともと信長が使用していた小柄に付いていたのを、忠興が見て使用したいと願ったそうです。忠興がお気に入りな信長はもちろんオッケーを出すのですが、後にこの家紋を巡って悲劇が起きる事になります。


1747年、肥後細川家の当主宗孝が板倉勝該という人物に殺されてしまいます。実は、板倉勝該が狙っていたのは細川宗孝ではなく、親戚の板倉勝清でした。
板倉家も家紋として九曜を用いており、この家紋を用いた服装をしていた板倉勝清を狙ったはず…だったのですが、誤って関係のない細川宗孝を刺してしまったんですよね。


こちらが板倉家が用いていた「九曜」です。

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うーん、見分けは付きそうな気はしますが・・・。



この事件を受けて、肥後細川家は「九曜」の周りを小さくしました。

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以前のよりあんまり変わらない気もしますが・・・(笑)


ちなみにこの九曜紋は、保科家や相馬家、伊達家など様々な大名によって使われている比較的ポピュラーな家紋です。ちなみに忠興と対立していた石田三成も、この九曜紋を用いていました。これについて以下の記事で解説しているので、興味があればご覧になってみて下さいね。


※参照:石田三成の家紋の意味や由来を解説。九曜紋、下がり藤とは?

甲冑のデザインを自ら手がけていた細川忠興


話を細川忠興に戻しましょう。

実は忠興は、自分の甲冑をプロデュースしていたという意外な(?)一面を持った武将です。彼の制作した甲冑は越中流(三斎流)と呼ばれており、自身の戦闘経験をもとに機能性に優れた簡素な具足です。忠興はこの甲冑をまとって関ヶ原の戦いに参陣、勝利を得たこともあり、この甲冑は「御吉例の甲冑」と細川家では呼ばれ、歴代の藩主や家臣が、越中具足を使用しています。


その一方で、忠興の使用した兜は上に突き抜けている独特なデザインですね。

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尊敬する信長を見習った奇抜さだったのでしょうか…?


この他にも、忠興は日本刀の拵(こしらえ)において肥後拵という様式を確立した事で知られているのですが、その具体的な作品に「信長拵」というものがあるのです。忠興が武具や甲冑に見せるこだわりは、尊敬する信長ゆずりなものがあったのかもしれませんね。

※参照:織田信長の性格の長所と短所とは?数々のエピソードを解説!

この記事のまとめ


細川忠興と織田信長の関係について、忠興が使用した家紋や甲冑などを含め解説しました。

細川忠興は、信長に気に入られており、また彼自身も信長を尊敬していたことが家紋からもわかります。甲冑を制作していますが、奇抜さという点で信長の影響もみられます。厳しいイメージがある信長ですが、細川忠興との関係をみると新たな一面が見られる気がしますね。

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