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今回は、足利義政について小学生の方向けにご紹介します。

まず、足利義政とはどんな人物だったのか、つぎに応仁の乱との関わり、そして義政の人生を年表を通して見てみたいと思います。

宿題やテストなどの参考にしてみて下さいね!
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足利義政ってどんな人?文化面での活躍はすごいけど…


足利義政は、室町幕府の8代将軍です。

自分の次の9代将軍を決めるとき、はじめ弟の義視(よしみ)に継がせようとしますが、その後妻の富子が義尚(よしひさ)を出産して、息子に将軍職を継がせたいと言うと、義政はそれに反対することができません。

その後、幕府の重臣を巻き込んだ形で後継者争いが広がることを止めることもできず、京都を舞台に11年も続く応仁の乱の原因をつくった人物として知られています。


一方、義政は日本独自の文化や芸能を好んだ人物としても有名です・

・日本庭園をつくる善阿弥
・大和絵を描く狩野正信(狩野派)や土佐光信(土佐派)
・能楽を演じる音阿弥

このような、現代でいうアーティストたちの活動を助けました。


これ以外では、お祖父さんで室町幕府3代目の将軍である足利義満が建てた金閣寺をまねて、京都の東山に銀閣寺を建てたことでも有名です。
銀閣寺に代表されるこの時代の文化を「東山文化」といいます。床の間などの和風建築や日本人らしい落ち着いた心「わび・さび」を生かした伝統芸能は、現在まで受け継がれています。

その意味では、足利義政は日本人の心の安らぎを文化の面で支えた。
このように考えることもできるでしょう。


しかし、政治という現実の世界においては、幕府の重臣たちや身のまわりに仕える乳母や養父たち、妻である日野富子らの政治介入をどうすることもできませんでした。

また、天災などで食べるものがなく、病気のために多くの人が死んでいる時代に、義政は趣味の建築がやめられず、天皇に怒られてしまうなど、出来の悪い将軍であるという印象を世間に残してしまったようです。

※参照:足利義満ってどんな人?年表や金閣寺を小学生向けに解説!

足利義政と応仁の乱のかかわりを小学生向けに解説


足利義政の時代におきた「応仁の乱」とはどのような戦いだったのでしょうか。

この戦いについて、小学生の方にもわかるように紹介します。


足利義政の時代に力を持っていたのは、将軍を補佐する役職である管領(将軍の次にえらい職業のこと)をつとめていた細川勝元(ほそかわ かつもと)と、有力守護大名の山名宗全(やまな そうぜん)の二人でした。
この二人が幕府権力を大きく二分しており、互いに相争う関係にありました。

だからこそ、足利義政のつぎの将軍問題だけでなく、ほかの守護大名、例えば斯波氏・畠山氏といった管領職を任されるような家の相続問題もこの二人を巻き込んでの争いとなったのです。

応仁の乱を簡単に説明するとすれば、この二人とそれぞれのグループ間の争いといえます。


義政が義視を将軍にするため細川勝元を頼ると、日野富子は義尚を将軍とするため、山名宗全を頼ります。この状況の中、足利義政はどちらに将軍職をゆずるでもなく、文化的な趣味の世界に逃げ込んでしまいました・・・。

義政の考えとしては、どちらが将軍になっても大御所(前の将軍)として将軍を意のままに動かすことだったようです。実際に応仁の乱がはじまった当初も、義政は停戦命令を出すなどしています。しかし、誰も義政には従いませんでした。

その後、弟・義視は義政と対立するようになり、西軍側に駆け込んだり、義政は中立を守り切れず東軍の細川勝元に将軍旗を渡したり、と状況はひどくなるばかりでした。


1473年には、その細川勝元、山名宗全の両名が死亡します。
義政は、これを機会に将軍職を息子・義尚にゆずると正式に隠居をしました。

ただ、応仁の乱そのものは、将軍の問題以外にも複数の原因があったことや、それぞれの領国への攻撃によって戦乱が全国規模に及んだことなどから、その後もつづき、1477年になってようやく終結を迎えました。

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足利義政の年表を小学生向けに解説!


最後に、足利義政の年表を簡単にご紹介します。

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―1436年(0歳)
室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)の三男として誕生します。


―1441年(5歳)
嘉吉の乱(かきつのらん)で父の義教が殺されてしまいます。
義政の兄・義勝(よしかつ)が7代将軍となります。
これによって義政の人生は大きく変わってしまうことになりました。


―1443年(7歳)
義勝死去。なぜ死んだのか、色んな説があるようですが、
赤痢という当時流行していた病気ではないかと言われています。


―1449年(13歳)
正式に室町幕府の8代将軍となります。


―1455年(19歳)
日野富子(ひの とみこ)と結婚します。


―1459年(23歳)
富子との間に子供を授かりますが、
その日のうちに亡くなってしまいます。


―1464年(28歳)
出家し仏門に入っていた弟・義視を呼び戻し、
次の将軍として定めました。


―1465年(29歳)
妻・富子がのちの9代将軍となる義尚を出産します。


―1467年(31歳)
応仁の乱がはじまります。


―1473年(37歳)
応仁の乱の主要人物であった東軍の細川勝元と、
西軍の山名宗全がともに死亡します。

義政は、義尚に将軍職をゆずり隠居します。


―1476年(40歳)
花の御所が戦火により焼失してしまいます。


―1477年(41歳)
西軍の多くが撤兵し、11年続いた応仁の乱が終わります。


―1482年(46歳)
東山に銀閣寺を建てはじめます。


―1485年(49歳)
義尚と対立し、出家・仏門に入ります。


―1489年(53歳)
義尚が陣中で病死したため、政治に復帰しますが、
妻・富子に反対されます。また、中風の病に倒れます。


―1490年(54歳)
死去。銀閣寺の完成を目にすることはかないませんでした。

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この記事のまとめ


足利義政とはどんな人だったのかについて、その年表などを小学生の方でもわかるようにご紹介しました。義政は文化面では多くのアーティストの活躍を助け、また銀閣寺を建てたことで有名な歴史人物です。

その一方で、応仁の乱ではリーダーシップを取ることが出来ず、後の人々には頼りない将軍という印象を与えてしまった側面もある人物です。


なお、以下の記事では「銀閣寺の歴史」について解説しているので、調べ学習や自由研究の参考にしてみて下さいね!

※参照:銀閣寺の歴史を簡単に解説。作られた理由や名前の由来は?