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室町幕府初代将軍である足利尊氏

歴史の教科書にはチラホラ名前が出て来る一方で、鎌倉幕府の源頼朝や江戸幕府の徳川家康と比べるとあまり話題になる事もなく、ましてはその家族となると全く知らない方も少なくないのではないでしょうか。


そこでこの記事では「足利尊氏の家族」というテーマで、

・祖父の足利家時
・父親の足利貞氏
・正室の赤橋登子

この3人について見ていきたいと思います。
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足利尊氏の祖父の足利家時について


まずは尊氏の祖父である足利家時についてご紹介します。

足利家時は、父・足利頼氏、母・上杉重房の娘の長男として1260年ごろに生まれました。
当時の鎌倉幕府は6代目の執権・北条長時の時代でした。天災や飢饉があり、日蓮が「立正安国論」を書いて幕府に法華経を勧めるなど、あまり穏やかな時代ではなかったようです。


そして1273年には、常盤時茂の娘との間に嫡男(貞氏)が誕生しています。
記録によれば、家時は、17歳ですでに式部大夫という職にあったそうです。

これは異例のスピード出世で、足利家が幕府から厚遇を受けていた様子が伝わります。


しかし、この家時は25歳という若さで自ら命を絶ってしまいます。
1284年のことでした。


なぜ死んでしまったのか、という理由についても諸説あります。


翌年、鎌倉幕府では、足立泰盛と平頼綱の権力争いが激しくなります。(霜月騒動)
家時の死ぬ前から、そうした争いがありました。この霜月騒動の際、家時の叔父・佐介時国は、足立泰盛の味方をしたため、暗殺されてしまいます。家時も共に責任をとろうとして自殺した、とする考え方があります。

あるいは、この時代、元(中国)が攻めてくるとのうわさがあり、本来の源氏将軍にリーダーとなって国をまとめて欲しいという考え方がありました。足利家は、将軍になる資格をもつほどの家柄ですが、執権である北条氏との関係をうまく保つために、そんなことは全く考えてないということを示す必要がありました。

そのために足利家時は、同じ年に34歳で病死した北条時宗の後を追って自殺した、とする考え方もあります。
 
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足利尊氏の父の足利貞氏について


続いて、尊氏の父親である足利貞氏についてもご紹介します。

父・家時の死を受け、家督を継いだのは貞氏が10歳のときとされています。

そのころ、襲来する元との闘いの勝利祈願の一つとして、源氏将軍を作り上げる、という出来事がありました。このころの将軍は皇族から借りてくるような軽い存在で、もちろん実権は、執権である北条氏が持っていました。


それでは、源氏将軍の作り方を見ていきましょう。


当時は、やはり皇族の王子で惟康王が7代将軍となっていました。
まず、惟康王を皇族から除外(臣籍降下)します。
次に、源氏姓を与え源惟康としました。

これで源氏将軍の誕生、というわけです。


こんなのでいいのか、という疑問が沸いてきますよね。

当時の人々も、同じように首を傾げました。
これって皆が望んだ源氏将軍とはずいぶん違うよね、となります。
なぜなら、そんなことをしなくても、しっかり源氏の家が残っているからです。

それが足利家です。

だったら足利氏から将軍を出そうとする動きと、足利氏に野心があると警戒する動きとが同時に活発になります。

足利貞氏は、そこは空気の読める人で、北条氏から源氏の嫡流を公認されても、北条につき従う態度は変えませんでした。そして1311年に時の執権・北条貞時が執権職を辞し出家すると、貞氏もまた出家してしまいます。
こういうところは、父の家時にそっくりで、もしかしたらわざと真似をしたのかもしれません。

この時、長男で尊氏の異母兄でもある足利高義が家を継ぎます。
しかしこの高義は、1317年にわずか20歳という若さで早世してしまいます。
これを受けて、貞氏は再び足利家を継ぎ、1331年に59歳で世を去りました。

その死は、尊氏が京都で後醍醐天皇に味方することを決意して、六波羅探題を滅ぼすわずか2年前のことでした。

足利尊氏の妻の赤橋登子について


足利尊氏の妻はどのような人だったのでしょうか。
最後に、尊氏の正室である赤橋登子について見ていきましょう。


登子の実家である赤橋家は、北条氏の一門で高い家柄だったといいます。
父は北条久時、母は北条宗頼の娘で、その兄弟は、最後の16代執権となった守時、最後の鎮西探題となった英時などがいます。

登子は足利尊氏に嫁ぎ、後の室町幕府2代将軍となる義詮、初の鎌倉公方となる基氏のほか、娘・鶴王という3人の子供を設けました。


1333年、後醍醐天皇が倒幕の旗を上げると、鎌倉幕府は足利尊氏を派兵します。
その間、登子と子・千寿王は鎌倉の浄明寺に人質として捕らわれの身となりますが、京で尊氏が六波羅探題を攻めたという話が伝わると、登子は千寿王を連れひそかに鎌倉を脱出します。

3歳の千寿王を連れての逃避行、しかも赤橋家は北条方の名家で顔も知れ渡っているはずですから、この時の登子は恐ろしかったことでしょう。
わが子を守りたいという一心だったに違いありません。


その登子の願いに応えるように、途中、新田義貞らの軍勢と合流します。新田家は、足利家との関係が深く、いわば味方の軍ですから、登子もまずは安心したでしょう。

その後、鎌倉に進軍した新田義貞の軍勢は、足利尊氏の嫡男と合流したことでさらに数が増えていきます。やがて、鎌倉に突入した義貞は、鎌倉を攻め滅ぼしてしまいます。
赤橋登子の兄で最後の執権・赤橋守時は、この時、洲崎において新田義貞軍と戦いますが、敗退し、最期は自刃します。


この時、登子はどんな気持ちだったのでしょうか。

実家である赤橋家の家族はほとんどが死んだか、行方知れずになったはずです。
まだ幼い千寿王を抱き、私にはもうこの子しかいないと思ったかもしれません。

その一方で、尊氏が側室である越前局との間に庶子である直冬をもうけると、その認知をなかなか許さなかった厳しい性格であったとする説もあります。


その後、1358年に尊氏が亡くなると出家したらしく、その7年後に60歳で亡くなっています。

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この記事のまとめ


足利尊氏の家族」というテーマで、足利尊氏の祖父である足方家時、父である足利貞氏、それから妻で正室の赤橋登子についてご紹介しました。

足利家時、そして貞氏親子を見ていると、当時の鎌倉幕府における足利家の微妙な立場がよく分かる気がします。また、尊氏の妻である赤橋登子も北条家に連なる赤橋家に連なる女性である事を踏まえると、鎌倉幕府における足利家は北条家との付き合いにかなり気を使っていたのだと感じます。一歩間違えれば家が滅亡する瀬戸際の中、家名の存続に気を使ったのでしょうね。


なお、以下の記事では足利尊氏の年表について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:足利尊氏ってどんな人?年表や室町幕府を小学生向けに解説!