貼り付けた画像_2017_05_05_16_59 最近話題になっている応仁の乱。
この戦いで東軍の総大将を務めたのが、室町幕府で23年間も管領を務めた細川勝元です。

ただその人物像について詳しい方は、そう多くはないのでは?今回は細川勝元がどんな人物だったのかを、山名宗全との関係やその子孫の有無も含めご紹介します。

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細川勝元はどんな人物だったのか?


まずは細川勝元がどんな人物だったのか、簡単にご紹介します。

細川勝元は1430年、室町幕府の管領を務めた細川持之の嫡男として産まれました。幼名は聡明丸と言ったそうです。また、管領とは室町幕府のナンバー2に当たる役職であり、勝元自身も15歳に管領に就任。以後23年間この職を務めました。今で言えば総理大臣の息子が父親と同じ職を長期に渡って務めていたと言ったところでしょうか。

また、12歳の時には父親の持之がなくなったため家督を相続。この頃の勝元は、同時期に管領を務めていた畠山持国(畠山義就の父として知られる人物)と対立関係にありました。両者の対立は1455年に持国がなくなるまで続いており、また一部の守護大名も勝元派、持国派に分かれて争う状況が続くなど、後年勃発する応仁の乱と同じような状況が続いていました。

当時の勝元を助けていた人物の一人に、後に応仁の乱で戦う事になる山名宗全がいます。しかしこの2人は、将軍である足利義政の後継者問題など様々な要因が重なり対立。1467年に応仁の乱を引き起こします。

その6年後の1473年、勝元は44歳の若さでなくなりました。京都で行われた戦いはやがて静まるも、その影響は日本全土に波及して後の戦国時代のキッカケを作り出しました。100年以上にも及ぶ戦乱の世を生み出した原因の一人と言える勝元ですが、一方で絵画や和歌、医術や料理に精通し、また龍安寺を建立するなど当時を代表する文化人としての一面も知られています。

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実は良好だった!? 細川勝元と山名宗全の関係


細川勝元と言えば、応仁の乱で戦った山名宗全の名前が浮かぶ方は多いと思います。東西それぞれの総大将だった2人ですが、この両者の関係はどのようなものだったのでしょうか。

上で述べた通り、この2人の関係は最初は良好でした。1445年に管領に就任した勝元は、当時対立していた畠山持国と対抗するために山名宗全と協力関係を結んでいます。縁戚関係も結んでおり、勝元の妻は宗全の養女にあたる女性であり、また子供がいなかった勝元夫妻は、宗全の子供である山名豊久を養子に迎えていた程でした。1454年に宗全が足利義政と対立した時も、勝元はこれを取り成しています。

しかし、勝元と宗全の関係は長続きしませんでした。
以下の様々な問題が重なり、この2人は徐々に対立するようになります。

1465年:
周防国の守護大名、大内政弘が家督相続。勘合貿易の問題から細川勝元と対立。
大内政弘は宗全に接近。

1465年:
斯波家の家督争い(武衛騒動)が勃発。
勝元が斯波義敏を、宗全が斯波義廉を支持する。

1466年:
足利義政の父、足利義教を殺害した赤松家の再興問題が勃発。
勝元の支援を受けた赤松政則が加賀国の守護に任命される。
山名宗全はこれに反対。宗全を牽制したい勝元の意図があったとされる。

1466年:
勝元に嫡男、細川政元が誕生。
これによって山名豊久が廃嫡される。

1466年:
畠山義就が宗全の後ろ盾のもと上洛。
勝元が支援する畠山政長を管領職から追いやる。

そして1467年1月には、畠山義就と政長の軍勢が激突。この御霊合戦(ごりょうがっせん)は応仁の乱のキッカケとなった戦いとして知られています。そして5月に行われた勝元支持派の大名と宗全支持派の大名が激突した上京の戦い(かみぎょうのたたかい)により、両者の関係は完全に決裂したと言えるでしょう。

※参照:山名宗全ってどんな人?家紋や子孫もわかりやすく解説!

細川勝元に子孫はいるの?細川家のその後は?


ところで、細川勝元には子孫はいるのでしょうか。

勝元には嫡男の細川政元の他、赤松政則に嫁いだ洞松院(とうしょういん)という娘という2人の子供がいました。このうち細川政元は女性と関係を持つ事はなかったため、別家から3人の養子を迎えています。そのため勝元の直系の血を引く子孫の方はいないという事になります。

一方、勝元の娘の洞松院は夫である赤松政則との間に女子を産み、これが政則の養子となる赤松義村に嫁いでいます。赤松家の本家は戦国時代には断絶しているものの、その末裔は高野山の住職や福岡藩の黒田家の家臣になるなどその血を受け継いでいます。こうした方の中に、勝元の血を引いている方がいるかもしれません。

また、勝元が当主を努めた細川京兆家は、政元の3人の養子による家督争いが原因で没落。その子孫は三春藩(現在の福島県)の藩主である秋田氏に仕えました。また勝元と直接関係はありませんが、戦国時代に活躍した細川家の一族である細川藤孝・忠興の親子は信長、秀吉、家康に仕え、その子孫は肥後熊本54万石の大名として江戸時代を通して存続しています。

※参照:細川忠興と織田信長の関係は?家紋や甲冑についても解説!

この記事のまとめ


細川勝元がどんな人物だったのかを、山名宗全との関係や子孫の有無を含めご紹介しました。

室町幕府管領の嫡男として産まれ、自身も15歳から通算23年もの間管領を務めた勝元。若くして要職に就任した彼を支援したのは、後に対立する事になる山名宗全でした。勝元の妻は宗全の養女にあたる女性であり、この2人の間には子供も産まれています。

しかし、勝元の嫡男である細川政元は女性を近づけなかったため、勝元の直系の子孫の方はいません。また勝元が当主を務めた細川京兆家は応仁の乱後没落。江戸時代を通して熊本藩主を務めた細川家は、一族の細川藤孝・忠興親子を端緒とする家柄にあたります。

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