海道一の弓取り、今川義元の生涯は波乱万丈なものでした。
その分、逸話や関わる人も多く、特に「むごい教育」というエピソードで知られる徳川家康との関係には興味深いものがあります。
今回は今川義元に関するエピソードから、彼の人物像を考えてみます。
桶狭間の戦いにおける今川義元の逸話について
今川義元についてよく言われているのは、公家文化に傾倒し、乗馬もできず輿で戦場に出ていた軟弱者であるという話です。
しかし、これは後世の創作でイメージ付けられた逸話であるという可能性が高い説があります。
当時、公家風の化粧や輿の使用は守護大名以上の家格で許しを得ていた、貴族とも関係の深かった者の特権だと考えられています。仮に今川義元が輿で戦場に出ていたとしても、それは身分の高さを示す一種のステータスであったと考えられるのではないでしょうか。
また、史料の中には、桶狭間の戦いの際に騎馬で退却しようとする逸話や、討死の際に織田勢を返り討ちにしたり、相手の指を噛み千切るほど抵抗したというエピソードもあります。
こうした逸話からは、軟弱者からはかけ離れた、馬上の猛将としての今川義元の姿が確認できると言っても過言ではないでしょう。
夢枕の「花倉殿」に切りかかったエピソード
戦国武将の逸話には、戦の前に不思議な夢を見たと話があるのですが、今川義元にも、夢に関する不思議なエピソードが残っています。
それは桶狭間の戦いの前のことです。
今川義元の夢の中に、以前家督を争った花倉殿こと異母兄の玄広恵探が出てきたのです。
恵探は義元の出陣を止めますが、義元は恵探がかつて敵であったため話を聞こうとしません。
それを見た恵探が今川家の存亡を心配しているのだと言ったところで義元は夢から覚めてしまった・・というエピソードが残っています。
その後義元は、出陣した後に亡くなったはずの恵探の姿を見つけて刀に手をかけたという逸話も残っています。
実際、桶狭間の戦いで今川義元が亡くなったことにより、今川家は滅亡の一途を辿ることになります。玄広恵探も元は後継者候補であったわけですから、生前、今川家を存続させたいという想いが強かったのかもしれません。そこから、このような逸話が出てきたのではないかと私は思っています。
※参照:寿桂尼ってどんな人?夫や女戦国大名と呼ばれた理由を解説!
家康に施した「むごい教育」の逸話とは
今川義元の逸話の中で、特に有名なものに、人質として引き取った竹千代(後の徳川家康)に「むごい教育をせよ」と家臣に命じたエピソードがあります。
「むごい教育」というと、あなたはどんなものを思い浮かべますか?
厳しく躾けることでしょうか?
いいえ、義元は家康の望むことを全て否定せずに与えるように命じたのです。
これについて、家康の才能を見抜いていた今川義元が、徳川家康を甘やかし、自分で判断できない人間に成長させようとしたと言われています。
現在でも教育の場ではこの逸話が例に出されることも多く、納得できる話が多いエピソードだなと個人的には思います。
しかし、当時の人質というのは家臣と同等の扱いや厚遇されるのが慣習だったようです。
そのため、なぜ家康は厚遇されていたのか、という疑問を抱いた後世の人が生み出した逸話ではないかという説もあります。
この記事のまとめ
今川義元はイメージとは異なる、猛将としての逸話も残っていました。また、当時の慣習の通り人質である家康を厚遇したりと、とても常識的な人でもあったようです。
歴史の導入として、逸話やエピソード、軍記物はとても面白く読みやすいものですが、勝者からの視点が多分に含まれていることも多い傾向にあります。どうしてそんな逸話が残ったのか、色んな視点から歴史を見ていくことが必要なのだと私は思います。
また、今川義元の評価については以下の記事で解説しています。
※参照:今川義元の政治、外交、軍事面での評価について
実際の義元は、一体どのような武将だったのでしょうか?