世界遺産にも登録されている金閣寺(鹿苑寺)は、日本だけではなく、今や世界的にも有名です。
そして、その金閣寺を建てたのが、足利3代将軍・足利義満。

歴史好きな私は、足利義満も勿論ですが、義満がなくなった後の金閣寺の歴史についても興味を持ってしまいます。

また、足利義満はなぜ金閣寺を建てたのでしょうか。その理由金閣寺の頂上にある鳳凰の意味を探ってみると、義満の心のうちが少し見えてくる気がするのですが…

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足利義満が金閣寺を建てた理由とは?


金閣寺が建てられたのは、1397年。
その頃の足利義満といえば、もう将軍職も息子に譲っていますし、太政大臣もやめています。
つまり、隠居生活をしていました。

当時の金閣寺は、足利義満の別荘として建てられ、北山殿と呼ばれていました。
金閣寺は、金箔がふんだんに貼られた金ぴかの三階建て。
隠居生活中の別荘としては、ちょっと豪華すぎまいか、と誰でも思いますよね。

しかも、この金閣寺、階層によってその建築様式がまるで違うのです。
1階は公家や貴族の居住によく使われた寝殿造りで2階は武家造り、そして3階は中国風の禅宗様になっています。
そのうえ、2階3階は金箔仕様。オリジナル住宅にしても、節操なさ過ぎのような気もします。


実は、これは足利義満が世に知らしめたい権威を表しているという説があります。

つまり、1階の公家や貴族よりも武家が上、そして、当時、足利義満個人が臣下の礼を取って交易をしていた明の国の様式を上に据えることで、自分が最大権力者という権威を表しているのではないかと言われているのです。

ちょっとうがった見方かもしれませんが、そう取られても仕方ないような気もします。

何せ、足利義満の時代は室町幕府の全盛期と呼ばれる時代です。
そんな時代に、あんな金ぴかで階層によって様式の違う建物を建てられたのでは、僻みありきの見解が出るのも道理かもしれません。


なお、以下の記事では、そんな足利義満の生涯を以下の記事でわかりやすく解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:足利義満ってどんな人?年表や金閣寺を小学生向けに解説!

金閣寺の鳳凰には義満の野望が込められてる!?


話は変わりますが、金閣寺の屋根の中心に、黄金に輝く鳳凰がいることはご存知でしょうか。

金閣寺の象徴ともいえるこの鳳凰は、とても縁起が良い伝説上の鳥です。
伝説上、つまり幻の神鳥であり、中国の神話では徳のある天子の世に現れるとされています。

そんな鳳凰を屋根の上に飾ろうと思った足利義満は、一見するととてもロマンチストのように思えますよね。


しかし、実はこれ、朝廷や天皇家にしてみたらとても無礼なことでもあります。


鳳凰は、徳のある天子の世にしか現れません。
天子とは、日本でいえば天皇です。

つまり鳳凰が現れるということは、新たに徳のある天皇の世が始まるということで、天子の交代を暗示しているようにも取れます。


しかも、その鳳凰を自分の別荘の天頂に置いてしまうという足利義満。
この鳳凰により、新たな天皇に相応しいのは自分だと示している、という説が出ても仕方ないのかもしれません。

その一方で、義満は自分が天皇となるというよりも、息子に天皇の座につけ、自分は太上天皇の位につこうとしていたのではないかとも言われています。

なんにせよ、富も権力も得て上り詰めるところまで来た足利義満にしてみれば、もう後はそれくらいしか目指す場所は残っていないわけです。
その心に、そんな野望があったかは分かりませんが、金閣寺には足利義満の生きざまとして勝ち取ってきたものが表れているのではないかと思います。

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その後の金閣寺の歴史は散々なものだった!?


金閣寺の歴史といえば、足利義満の死後は不遇の運命にありました。

足利義満は、自分の別荘として山荘北山殿をつくりました。
しかし、死後は寺にして欲しいという遺言に従い、北山殿は禅寺に様式を変更し、相国寺の塔頭寺院の1つとなります。


では、その後の金閣寺の歴史はどのようなものだったのでしょうか。

義満死後の金閣寺は、雨風に曝されたり、応仁の乱で焼失するなど、時代ごとに大きなダメージを受けています。
そのため、1649年と1906年に、大規模な修理や修繕を行ったという記録が残されています。


大規模な修繕を終えて約50年後、またも金閣寺に災難が起きます。それは、事故や経年劣化ではなく、故意のもの。

1950年に金閣寺は、放火により全焼してしまったのです。
その際、歴史的に貴重な像や経巻も焼失してしまったそうです。

全焼してしまったことで国宝指定は解除されますが、1952年、再建のために国からの援助は勿論、全国から寄付が募られたそうです。
再建までに3年を要し、1955年に再び蘇った金閣寺。

ちなみに、この出来事は様々な芸術作品のモチーフになっています。中でも小説家・三島由紀夫が1956年に執筆した『金閣寺』という小説は360万部以上のベストセラーになり、海外でも高く評価されています。


1987年には、再び劣化してきた金閣寺の大規模な修復が行われました。
これが世にいう「昭和の大修復」です。
ちなみ、この時の費用は7億4000万円で、7億ほどは金箔の費用だったというから恐ろしいです。

そして1994年、金閣寺は世界遺産「古都京都の文化財」として登録されることとなりました。

近年も夕佳亭や方丈など個々に解体修理が行われているそうで、京都や日本の象徴として大切にされています。

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この記事のまとめ


足利義満が金閣寺を建てた理由は、隠居のための別荘というものがありますが、彼自身の権威を見せつけるためという説もあります。
この金閣寺の頂上にある鳳凰は、義満の野望を暗に示しているのかもしれません…

その一方で、義満なき後の金閣寺の歴史は、天災や戦乱で消失するなど、必ずしも輝かしいものとは言えませんでした。

実際、富も権力も手にした足利義満。
金閣寺は彼の華やかな生涯をうつす象徴と言えるでしょう。


余談ですが、以下の記事では銀閣寺の歴史について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:銀閣寺の歴史を簡単に解説。作られた理由や名前の由来は?