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日米開戦時の日本海軍・連合艦隊司令長官として有名な山本五十六(やまもと いそろく)ですが、その詳細な人物像についてはあまり知られていない気もします。

そこでこのページでは、山本五十六がどんな人だったのかを、年表やその最後となった海軍甲事件の謎にも触れながら簡単にご紹介します。
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山本五十六ってどんな人?分かりやすく解説!


まずは山本五十六がどんな人だったのかを、簡単に見ていきましょう。

山本五十六は1884年に、新潟県の長岡で生まれます。父が56歳のときに生まれたので「五十六」という名前になったのだとか。1904年には海軍兵学校に入学し、日露戦争にも従軍しています。

また、五十六はの姓はもとは「高野」だったのですが、1915年にはかつてこの地を治めていた長岡藩の家老であった山本家を継いだため、山本姓を名乗っています。2年後にはアメリカに派遣されハーバード大学に入学し、英語を習得するなどアメリカに対する知見を深めます。


山本五十六の人物像ですが、現実を直視し分析する能力にたけており、しかもそれを断固としてまげない信念の人という言葉が似合います。例えば、山本は日露戦争の日本海海戦で巡洋艦「日進」に乗り死闘を演じた経験をもちながら、のちに国防の要は航空機にあるとして航空戦力の拡充に尽力しています。また、1929年のロンドン軍縮会議にも随行し、その際、艦船の保有率を対米7割と主張。比率を6割にしたい政府の方針に異を唱えています。

1936年に締結された日独伊三国軍事同盟にも、国益にかなわないとみて反対しています。また、日米の国力差を熟知する山本は、日米開戦にも反対でした。結果として1941年に行われた真珠湾奇襲は成功しますが、翌年のミッドウェー海戦では大敗を喫します。

その2年後、山本五十六は前線で戦う部下を労うために飛行していた際、米軍に撃墜され59歳で戦死しています。その死はひと月ほど隠されたのち、国葬に付されています。

山本五十六の年表をわかりやすく解説!


ここでは、山本五十六の年表を分かりやすいようにまとめてみました。


・1884年(0歳)
新潟県古志郡(いまの長岡市)で生まれる。

・1901年(17歳)
海軍兵学校に入学、1904年に卒業します。

・1905年(21歳)
少尉候補生として日露戦争(日本海海戦)に参加し重傷を負ってしまいます。

・1915年(31歳)
旧長岡藩家老・山本家を相続、以後「山本五十六」と名乗ります。

・1919年(35歳)
アメリカ駐在武官となり、ハーバード大学で英語を学びました。

・1929年(45歳)
海軍少将としてロンドン軍縮会議に随行。
日本の保有艦船の数を対米7割と主張します。
(結果的に6割で条約調印)

・1939年(55歳)
連合艦隊司令長官に任ぜられます。

・1941年(57歳)
日米開戦に反対していた山本でしたが、真珠湾攻撃を作戦立案し敢行します。
日米開戦をむかえます。

・1943年(59歳)
ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜され戦死しました。

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山本五十六は、皇族や華族以外ではじめて国葬が営まれた人物でもありました。その死は新聞で報じられ、当時の国民は衝撃を受けたと言われています。

では、山本五十六の最後はどのようなものだったのでしょうか。
以下で少し詳しく触れてみたいと思います。

山本五十六の最期とは?海軍甲事件について解説。


1943年、山本五十六は前線で戦っていた部下を労うために飛行機に搭乗していた際、米軍機によって撃墜され戦死します。この出来事は「海軍甲事件」(かいぐんこうじけん)と呼ばれており、山本五十六の最後としてしばしば語られる事があります。


海軍甲事件の概要は以下の通りです。


この年4月18日の朝6時過ぎ、山本五十六は参謀長であった宇垣纏(うがきまとめ)と共に、ソロモン諸島の最前線を視察するため飛行機に搭乗します。この時、山本の一番機、宇垣の二番機を零戦6機が護衛していました。

しかし山本らの動きは、暗号解読を行っていた米軍に把握されます。山本の戦死が日本に大きな影響を与えると考えた米軍は山本暗殺を決意し、戦闘機18機を派遣するのです。

7時半頃、両軍はブーゲンビル島上空で遭遇し、その20分後には山本の一番機が撃墜されジャングルに墜落します。同時に宇垣の二番機も撃墜されるのですが、こちらは海に堕ちたため一命を取り留める事ができました。


ただ、この海軍甲事件には以下のように不審な点が多く指摘されています。


・司令長官と参謀長が共に最前線を視察する意味がない点
・直前に変更した新暗号を使わず旧暗号を用いて通信傍受されたらしい点
・検死報告にある山本の顔面の銃創が、米軍機のものではない点
・第一発見者の証言によると、山本の顔面には銃創などなかった点
・山本の遺体の損傷が、同乗者の遺体の傷と比べて少ない点



このことから、自殺説、謀殺説の他、死んだのは影武者で山本本人は生きていたとする説まであります。少なくとも、山本五十六の死は、一国の連合艦隊司令長官の最期として異様だと言わざるを得ないでしょう。

この記事のまとめ


山本五十六がどんな人だったのかを、年表や最後となった海軍甲事件と共にご紹介しました。

現実主義者で分析能力もあり、かつ信念の人であったはずの山本五十六ですが、特に晩年の実戦指揮においては疑問や批判も多くあるようです。

おそらく山本にはこの戦争の結末が見えていたに違いなく、理想と現実のギャップにジレンマもあったのでしょう。彼の最期には、何か深いメッセージがあるように思えてなりません。

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