徳川四天王の一人である本多忠勝は、徳川家康の家臣の中で最も武勇に優れた人物としても知られています。出陣した合戦の中で一度も負傷しなかったという逸話も有名ですね。

そんな本多忠勝が身に付けていた武具とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

今回は、本多忠勝が使用していた「蜻蛉切」という槍に加え、その鎧兜についてご紹介します。

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蜻蛉が真っ二つになったことが由来?本多忠勝の槍「蜻蛉切」

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※参照:本多忠勝愛用の名槍・蜻蛉切が11年ぶり展示


本多忠勝は蜻蛉切((とんぼぎり)という槍を使用していました。これは、日本三大名槍の一つで、江戸時代に西の日本号、東の御手杵と呼ばれていたものに蜻蛉切が加わったそうです。

蜻蛉切はその長さで知られています。当時、通常の槍の長さが一丈半(約4.5m)であったのに対し、蜻蛉切は二丈(約6m)とかなり長いものでした。しかし、本多忠勝が年を重ねるにつれて、槍の柄を短くしていったとされています。

本多忠勝といっても、体力の問題に直面していたのですね。現代のスポーツ選手が年齢とともにパフォーマンスが低下してしまうところと重なり、親近感を覚えます。


ここで蜻蛉切の名称の由来を紹介します。

戦場で槍を立てていたところに蜻蛉が飛んでいました。その蜻蛉が穂先にぶつかってしまい、真っ二つに切れてしまったことが由来だそうです。

蜻蛉切の殺傷能力はかなりのものだったのでしょう。敵将からすれば、蜻蛉切ほど恐ろしい槍はなかったのではないでしょうか。

※参照:本多忠勝の父親はどんな武将?2人の妻やその子孫について!

本心では戦を望んでいなかった?本多忠勝の鎧「黒糸威胴丸具足」


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本多忠勝が身に着けていた鎧は黒糸威胴丸具足(くろいと おどしどう まる ぐそく)です。
非常に長くて重い蜻蛉切とは異なり、忠勝は鎧については動きやすさを重視したため、比較的軽いものを使用していました。

殺傷能力を高くし、攻撃を重視する。攻撃は最大の防御。
先手必勝といった考え方をしていたのかもしれません。


本多忠勝と言えば、出陣した戦でかすり傷1つも負わなかった逸話が有名ですが、この考え方が本当である場合、忠勝の武勇がどれだけ凄かったかが分かる気がします。

また、見た目からわかる最も大きな特徴は、肩から数珠をかけている点です。
これは、戦った相手、自分が討ち取った相手を弔うためだったとされています。


本多忠勝は、戦をあまり好んでいなかった一面があったのでしょうか。
家康のため、徳川家のために心を鬼にして戦っていたのかもしれませんね。

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鹿のようになりたい?本多忠勝の兜「鹿角脇立兜」


本多忠勝は、鹿角脇立兜(かづの わきだて かぶと)という兜を使用していました。
見た目のインパクトが強いですね。

和紙を貼り合わせ、黒漆で塗り固めた脇立は、鹿の大きな角を使用しています。圧倒的な存在感があり、とても近づきがたい印象を与えますね。まさに負け知らずの本多忠勝を象徴していると思います。

本多忠勝が鹿角脇立兜を使用したとされる説の一つを紹介します。桶狭間の合戦で、家康とともに三河に戻ろうとした際に川が雨で増水してしまい、通れないでいました。織田家が追ってくるかもしれないという状況の中で、一匹の鹿が現れ、家康と忠勝を浅瀬まで導いてくれたため、三河に戻ることができたそうです。

本多忠勝は、この鹿のように家康を生涯守ろうと決め、鹿の角がある兜を作ったそうです。
突然現れた鹿に運命的、神秘的なものを感じたのだと思います。

忠勝の決意が現れていますね。

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記事のまとめ


この記事では、本多忠勝が使用した武具についてご紹介しました。

・槍:蜻蛉切
・鎧:黒糸威胴丸具足
・兜:鹿角脇立兜


徳川家最強ともいわれている本多忠勝ですが、単なる戦好きの武将というよりは、徳川家に忠実であったがゆえに、戦の最前線に立ち続けていたのでしょう。


その本多忠勝を含めた徳川四天王の面々について以下の記事で解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さい。

※参照:徳川四天王とは?その後や子孫の存在についても解説!