全国各地で学問の神様として祀られている菅原道真
受験生などは、天満宮や天神様へお参りに行くのが恒例化していますよね。

このページでは、菅原道真という人物のプロフィールや年表を、小学生の方にも分かりやすいようにご紹介します。

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菅原道真のプロフィールを小学生にもわかりやすく解説!


菅原道真と言えば「学問の神様」と言われてますが、それは彼が天才だったからです。
道真はなんと、5歳の頃から和歌を嗜み、11歳では詩を詠むなど、周りの人から神童と言われていました。

ひたすら勉学に励んだ菅原道真は、学者としてのトップである文章博士(もんじょうはかせ)にまで上り詰めます。
そればかりか、得意とした弓矢では百発百中の腕前。
つまり、文武両道に秀でた人だったのですね。


また、京都から讃岐国(今の香川県)の長官として4年間つとめた際にはいい政治を行い、見事、讃岐国を立て直してみせます。
しかも、その誠実な人柄から、多くの民に慕われる人だったそうです。


その後、そのときの実績を買われた菅原道真公は京都へ戻り、当時の宇多天皇から大いに信頼されます。官職も蔵人頭に始まり中納言、大納言と、順調に出世街道まっしぐら。
天皇が醍醐天皇に変わった後も昇進を続け、右大臣になります。


しかし、そんな菅原道真の成功を面白く思わなかった人達の不満が爆発。
菅原道真は、醍醐天皇を廃そうとしているという覚えのない疑いをかけられ、官位を下げられると大宰府(今の福岡県)へ左遷されてしまいます…。

菅原道真は、疑いが晴れるのを静かに待ちました。
けれど、その望みは叶わず、道真は大宰府にてその生涯を終えることとなります。


菅原道真が死して2年後には、朝廷で無実が証明されることとなり、その家族たちも帰京を許されます。
そして、その更に数十年後には、すでに故人であるにもかかわらず太政大臣にまで昇進。
京都の北野天満宮に祀られました。

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菅原道真が提案した「遣唐使の廃止」って?


菅原道真と言えば、遣唐使を廃止した事でも有名です。

遣唐使とは、当時の日本がお隣の中国(当時は「唐」と呼ばれていました)に派遣した使者のことで、日本はこの唐の国に人々を派遣して、多くのものを持ち帰っていました。


当時の唐は、日本に比べてはるかに進んだ政治の仕組みや華やかな文化で知られており、日本は唐からこうしたものを学んで国づくりを進めた時期がありました。

しかし、菅原道真が活躍した9世紀の終わり頃には、日本の政治の仕組みや文化もかなり発展していました。また、当時の唐の国は戦争がたくさん起こっていた事もあって、菅原道真はもう唐から学ぶことは必要ないと判断します。


そして894年、道真は遣唐使の廃止を天皇に提案します。この道真の提案は受け入れられ、また唐が907年に滅んだこともあって、遣唐使は廃止されたのです。

これまでの日本の文化は、唐など中国の影響を受けたものが多かったのですが、この遣唐使の廃止によって、日本独自の文化が盛んになります。いわゆる「国風文化」と呼ばれるもので、これによって源氏物語を書いた紫式部や枕草子を書いた清少納言など、多くの有名な作家が登場することになりました。

※参照:紫式部の父親の藤原為時とは。夫や子供の大弐三位も解説!
※参照:清少納言の父親の清原元輔とは。2人の夫とその子供について

菅原道真の年表を小学生向けにわかりやすく解説


最後に、菅原道真の年表を、小学生の方にもわかりやすい形でご紹介します。

調べ学習や自由研究などの参考にしてみて下さいね(^^)

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・845年(0歳)
現在の奈良県の奈良市で菅原道真は誕生します。

・855年(11歳)
初めて詩を読む。まわりからは神童と呼ばれました。

・862年(18歳)
式部省試というテストを受けて文章生となります。

・877年(33歳)
学者のトップである文章博士となり、式部少輔という官職をさずかります。
当時の道真は、朝廷の文化人の中心的な存在でした。

・880年(36歳)
父・是善が亡くなり、後ろ盾を失います。

・886年(42歳)
讃岐守を任じられ、讃岐国(今の徳島県)の立て直しに尽力します。

・890年(46歳)
讃岐国を無事立て直し、京都へ帰ります。

・891年(47歳)
宇多天皇の信頼を得て、蔵人頭(くろうどのとう)になります。

・894年(50歳)
唐(今の中国)に派遣する遣唐使のトップに任命されます。
しかし、唐が乱れていると考え、遣唐使の派遣を中止します。

・895年(51歳)
中納言(ちゅうなごん)に任ぜられます。

・896年(52歳)
菅原道真の長女が宇多天皇の奥さんになります。

・897年(53歳)
権大納言(ごんだいなごん)とう官職をさずかります。
同時に、右近衛大将(うこんえのだいしょう)にもなりました。
道真を頼りにしていた宇多天皇が醍醐天皇に天皇の位をゆずります。

・899年(55歳)
右大臣(うだいじん)に任ぜられます。

・901年(57歳)
醍醐天皇を廃そうとしているという疑いをかけられます。
右大臣を辞めさせられ、大宰府へ左遷されます。

・903年(59歳)
疑いは晴れることなく、謹慎地の大宰府にてなくなります。


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ここまでが、菅原道真の年表です。
色々な官職をさずかっている事から、とても忙しかったんだろうなと思う人生です。

けれど、最終的にはその成功を妬んだ人びとにおとしめられてしまいます。
道真は無実の罪で太宰府に流され、一人静かに亡くなりました。
華々しい経歴の後の急激な転落人生は、ひどく呆気ないほどです。


けれど、道真の人生で面白いのは、なくなってからも年表が続くことです。
死んだ後まで昇進したり、神様として祀られたり・・・

ほんの少しだけですが、見てみましょう。


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・905年(没後)
道真の無罪が証明され、その家族も帰京を許されます。

・919年(没後)
菅原道真を祀る太宰府天満宮が建てられます。

・923年(没後)
菅原道真の右大臣の位を復し、左遷という命令書が焼却処分されます。

・987年(没後)
一条天皇より北野天満宮天神の称号を与えられます。

・993年(没後)
太政大臣の位を贈られます。

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受験生たちの最強の味方。学問の神様となった菅原道真公。

その人生は、大成功とは言えない終わり方でもありますが、反対にいえば、簡単におとしめられてしまうようなお人好しというか、誠実な人だったという事なのかもしれません。

この記事のまとめ


菅原道真は、文武両道に秀でた誠実な人柄で、多くの人々に慕われました。
当時の天皇の信頼を得ると出世街道まっしぐらで、順調に官位を上げた菅原道真。
「遣唐使の廃止」を提案して、その後の日本の文化にも大きな影響を与えました。


今では「学問の神様」として、受験生たちの味方になった菅原道真。では何で、道真は学問の神様と呼ばれるようになったのでしょうか。その理由については↓↓でご紹介しています。
一度読んでてみて下さいね。

※参照:菅原道真が学問の神様と呼ばれる理由は?その学力にも迫る!