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現代の日本では思想の自由から信仰している宗教も様々ありますが、一番多いのはやはり仏教でしょうか?でももちろん、キリスト教もよく耳にしますよね。


戦国時代においては現在よりも身近な宗教であったと考えられるキリスト教。
その信者の数は一体どれくらいだったのでしょう?
また布教活動などは現在とどういった違いがあるのでしょうか。


キリスト教に対する、戦国武将の3つの反応についてもご紹介します。
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戦国時代におけるキリスト教の布教活動とは?


まずはじめにキリスト教の伝来は戦国時代真っ只中の1549年のこと。
かの有名なフランシスコ・ザビエルが日本に持ち込んだというのは、歴史の教科書でもお馴染みの史実ですよね。

ザビエルは他の宣教師と共に、九州鹿児島からその布教を開始します。
言語や文化の違いに悩みながらも地道に各地を旅しながら、徐々に日本人の理解を得て洗礼者の数を増やしていくこととなったのですが、志し半ばでザビエルが病没してしまいます・・・。

その後日本に派遣されてきたのが、織田信長や豊臣秀吉と密な繋がりを持つことに成功するルイス・フロイスや、天正遣欧少年使節の派遣を行ったヴァリニャーノです。

こうした宣教師たちの布教活動の内容ですが、こうした宣教師たちはまず各地の有力な武将と会見をして、南蛮貿易などの利益を理由に布教の許可を得るという手段をとります。南蛮貿易による火縄銃の伝来などが栄えた当時、この方法は大名たちの心をガッチリと掴んだと思われます。

当時のキリスト教は日本の伝統文化や生活様式・習わしなどを尊重する方針をとり、あえて日本人の司祭などを採用したりしてさらにその思想を広めていきました。

また、日本の若い少年たちをヨーロッパに派遣して本場のキリスト教に触れさせる天正遣欧少年使節などの活動も行い、これによって、日本におけるキリスト教の立ち位置はより強固なものとなったのです。

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戦国時代のキリスト教の信者の数はどれくらい?


ザビエルの来日から、急速にその信者の数を増やしていったキリスト教。
それでは、戦国時代のキリスト教の信者の数はどれくらいだったのでしょう?

実は、この時代のキリスト教の信者数は、正確には分かっていません。

ただ、関ヶ原の戦いが起こった1600年には30万人程、大坂の陣が起こった1615年には60万人程の信者がいたと言われています。これ以外には1605年に75万人の信者がいたとする記録も残っており、正確な数はハッキリとはしてないようです。

ちなみの現在の日本におけるキリスト教信者の数は、全人口1億3千万のうち約1%と言われています。一方、戦国~江戸初期の総人口は諸説あるものの1200~2200万人の間だと言われているので、当時のキリスト教がいかに人々の支持を集めていたかが分かりますね。

キリスト教に対する戦国武将の反応とは?


それでは、キリスト教に対する武将の反応はどのようなものだったのでしょうか。

ここではキリスト教を熱心に信仰していた者、政治的に利用していた者、そして布教活動を禁じたり弾圧した者の3つに分けて考えてみましょう。

キリスト教を熱心に信仰していたキリシタン大名について


キリシタン大名とは、キリスト教の洗礼を受けた大名を指す言葉です。

代表例としては、天正遣欧少年使節を派遣した大友宗麟、有馬晴信、大村純忠などの九州の諸大名や、黒田如水や蒲生氏郷、小西行長らの改宗に大きな影響を与え、信仰を守るために自らの領地を捨てた高山右近などが挙げられます。

その一方で、彼らの中には領内の寺社仏閣を打ち壊すなど、旧来の宗教に対しては厳しい面を持って接した者も少なくありませんでした。

キリスト教を政治的に利用していた武将たちについて


また、キリスト教の信者にはならなかったものの、政治的な利益を目的としてキリスト教を好意的に扱った戦国大名も珍しくありませんでした。貿易を円滑に進めるためにザビエルに布教活動の許可を与えた島津貴久大内義隆、天下統一の妨げになっていた仏教勢力に対抗するためにキリスト教の布教を許可した織田信長が有名ですね。

特に信長は、宣教師たちが外国から持ち込む珍しい品や西洋の知識について魅力を感じたと言われています。信長の意志を受け継いだ豊臣秀吉も西洋の音楽や食材を好んだとされ、膨大な利益を得る目的で貿易にも力を入れ、宣教師たちと親交が深かったとされています。

キリスト教の布教活動を禁止した事例について


しかし、こうした大名の中には、キリスト教の布教が自らの利益に繋がらない事が分かると、布教活動を禁じたり、キリスト教を弾圧する者も珍しくありませんでした。

例えば島津貴久は、南蛮貿易が思ったより進まない事や領内の反発が激しかった事から、キリスト教の布教を禁止したりしています。また秀吉もキリスト教の浸透を脅威と捉えるようになり、バテレン追放令二十六聖人の処刑などを行っています。

そして、徳川家康や江戸幕府も最初は貿易による利益のためキリスト教を黙認していましたが、次第にその勢力拡大に脅威を覚えるようになり、次第に本格的なキリスト教弾圧へと踏み切るようになるのです。

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この記事のまとめ


戦国時代におけるキリスト教の布教活動や信者数、武将たちの反応についてご紹介しました。

戦国時代のキリスト教信者とは、政治的にこれを利用したり貿易による利益のために洗礼を受けたりと単純にキリスト教に感銘を受けたからという熱心な人たちばかりではなかったことが分かります。

しかし最終的に75万人とも言われる信者数を獲得し、天下人に脅威を抱かせるほどにまで広まったということは、やはりそれまで仏教しか知らなかった戦国時代の人々にとってキリスト教の教えは、心の救いとなる何かがあったのかもしれませんね。


なお、以下の記事ではバテレン追放令と禁教令の違いなどを解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:バテレン追放令は不徹底だった?出された理由や禁教令との違いとは?