大坂の陣で最後を迎えた真田幸村ですが、その息子たちは思わぬ所で父の血脈を残しています。
彼の子供の真田大八(片倉守信)と娘の阿梅らは、当時敵であった伊達家の片倉重長に引き取られています。人質としてではなく、幕府に嘘をついてまで大切にしていました。
その結果、真田大八を家祖とした仙台真田家は、滅びることなく、現在も続いております。
今回は、伊達家に引き取られた真田幸村の子供たちをご紹介します。
わずか3歳で伊達家に引き取られた真田大八とは?
真田大八とは、真田幸村と竹林院(大谷吉継の娘)の子供で、幸村の次男です。大坂の陣の後、3歳の頃に伊達政宗の重臣である片倉重長に引き取られ、伊達家で秘密裏に育てられました。
※参照:大谷吉継の妻の名前は?娘の竹林院(春)の真田丸での立ち位置も検証!
これが真田大八(片倉守信)の肖像画だと言われています。
とても凛々しい姿ですね。
大八は、1640年の28歳の時に「真田守信」という名前を名乗ったため、幕府から幸村の子孫の生き残りかと疑われましたが、伊達家はすでに大八は死んでおり、彼を幸村の叔父である真田信尹の孫であるとうまく幕府をかわしています。
当時絶大な権力を持っていた幕府に対して、伊達家はここまでして大八を匿った理由は何だったのでしょうか。諸説あるかと思いますが、個人的には伊達家が真田幸村という武将への敬意を示したものであると感じます。
その後、真田大八は恩人の片倉重長の姓である「片倉」を名乗り、仙台藩士片倉守信として300石を与えられたと言われています。大八はその後も無事に生き延び、1670年に59歳で天寿を全うしました。
※参照:片倉景綱の活躍や居城の白石城について解説。子孫はいるの?
阿梅は片倉重長に保護され、最終的には継室に!
また、伊達家に引き取られた真田幸村の子供の一人に、阿梅という女性がいます。
この阿梅は真田幸村の三女で、1604年に生まれたため大八にとっては姉にあたります。
母は高梨内記の娘(真田丸のヒロインこときりちゃんですね)なので、大八とは母親が別という事になりますね。
阿梅は1614年、12歳のときに父幸村とともに大阪城に入城していましたが、その後は大八とともに片倉重長に引き取られました。その後は一説によると、片倉重長の正室である指月院が阿梅を大変気に入り、自分の死後に妻にするようと口にしたそうです。
実際に1620年、阿梅は17歳の時に片倉重長の継室となっています。
片倉重長と阿梅の間に子供はいませんでしたが、前妻の娘の子である景長を養子としています。阿梅も大八と同様その後も生き延び、1681年に78歳で亡くなりました。
片倉重長が阿梅を真田幸村の娘であることを知らず連れて帰ったという逸話や乱取されたという説もありますが、重長は阿梅以外の幸村の子供も引き取っているので、個人的にそれらの可能性は低いと感じています。
仙台真田家の子孫は、真田幸村の血筋を今に伝える
真田大八こと片倉守信を祖とする仙台真田家。
大八こと片倉守信の死後、仙台真田家はその息子である真田辰信の代の1712年から再び真田の姓を使用しています。この頃は6代将軍徳川家宣の時代であり、さすがに幕府の追求も緩くなってきた時期だったと思われます。
また、この真田辰信は1673年に、松代藩3代目藩主で、真田信之の孫である真田幸道と対面したとされています。これは、真田幸道が愛媛にある伊達家の別家(宇和島藩)から正室をもらった際、本家の仙台藩の伊達家の計らいによって実現したものとされています。
仙台真田家はその後は養子を取りながらも存続し、現在までその家系は続いています。
14代目当主の真田徹さんは、歴史研究家として全国で真田幸村に関する講演やイベントに参加しています。
真田幸村の血筋は、一つ間違えれば全滅の恐れがあったと思われますが、片倉重長や伊達家のはからいによって存続しています。仙台真田家と片倉家は未だにお付き合いがあるそうです。
この記事のまとめ
真田幸村の子供である真田大八(片倉守信)と阿梅は、伊達政宗の重臣である片倉重長に保護されました。その後、真田大八は仙台真田家を起こし伊達家に仕え、娘の阿梅は重長の継室として彼を支えました。
仙台真田家は、今日まで子孫を残しています。これらの逸話は、幸村の武勇を表した必然の結果なのではと感じてしまいます。
なお、以下の記事では大坂の陣における伊達政宗の行動について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:伊達政宗と大坂の陣。神保相茂や真田幸村との縁について解説