あなたは斎藤利三という武将についてご存知ですか?

明智光秀に仕え、その重心として光秀の出世を支えた事で知られている人物です。四国の長宗我部元親と縁戚関係がある事でも知られており、この点が本能寺の変の要因になっていると言われる事もあります。

今回は、斎藤利三がどんな武将だったのかを、主君である光秀や長宗我部元親との関係も踏まえつつご紹介します。

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斎藤利三ってどんな武将?「大奥」に関わる女性の父親だった?


斎藤利三は1534年に、美濃斎藤氏の一族である斎藤利賢(としかた)の次男として生まれました。美濃国を治めた戦国大名・斎藤利三とは別の一族だと言われています。利三の正室は斎藤道三の娘という説もあるのですが、こうした美濃斎藤家の系図は諸説があり、それぞれの人物の関係を明確に結びつけるのが難しいのが現状です。

成長して一族の斎藤義龍(道三の長男)に仕え、稲葉一鉄、そして明智光秀に仕えました。光秀には大変重宝されたようで、明智家の筆頭家老として合戦、政治の両面で多大な働きをした事で知られています。本能寺の変において主導的な役割を果たし、その後の山崎の戦いでも先鋒として活躍しました。しかし秀吉軍に破れ、最終的には捕らえられ斬首。49歳の生涯を閉じました。

利三と言えば、明智光秀の重臣という点で有名なのですが、江戸幕府3大将軍・徳川家光の乳母として、江戸時代の「大奥」の基盤を整えた春日局(かすがのつぼね)の父親としても知られている人物です。堺の商人で、茶人として知られていた津田宗及(つだ そうきゅう)と交流があるなど、茶人としての側面があったとも言われています、

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斎藤利三と明智光秀の関係。血の繋がりはあったの?


斎藤利三と明智光秀の関係について詳しく見ていきましょう。

利光が光秀に仕えたのは、1570年頃だと言われています。もともと利光は、美濃三人衆の一人である信長の家臣・稲葉一鉄に仕えていました。しかし、利三は主君である稲葉一鉄と喧嘩をしてしまったらしく、これを機に稲葉家を離れ、明智光秀に仕えるようになります。これを知った信長は激怒し、光秀を厳しく叱ったと言われてますが、光秀は利三を召し抱えたいと懸命に訴えた結果、信長も後々これを認めたという逸話が残されています。

利三は光秀から大変重宝されたようで、明智家一族の明智秀満と共に、明智家の筆頭家老に任命されています。1578年に光秀が丹波国に侵攻した後には、氷上郡(現在の兵庫県丹波市)に1万石を与えられています。また、光秀が本能寺の変を実行する際、一部の重臣にその計画を打ち明けているのですが、その中は勿論、利三も含まれていました。利三はこれに反対したようですが、主君の恩義に報いるため、最終的にはこれに同意。本能寺の変を積極的に主導したと言われています。お互いに深い信頼関係で結ばれていたのでしょうね。

※参考:明智光秀ってどんな人?年表や本能寺の変をわかりやすく解説


なお、利三と光秀は血の繋がりこそないものの、遠い親戚と考えて良いと言えます。以下の図の通り、利三の父親である斎藤利賢(としかた)という武将の後妻が、光秀の叔母(彼の父親である明智光綱の兄妹)にあたるからです。


異説としては、江戸時代に編纂された「徳川実紀」という資料に記されている、”利三は光秀の妹の子である”という一文が挙げられます。これについては、2人の年齢を考慮すると”姉の子”といった方が正しいのでないかという説もあり、斎藤家や明智家の系図がハッキリとしていない以上、明確な説がないのが現状です。

斎藤利三と長宗我部元親の関係。何が2人を結びつけたのか?


また、利三は四国の長宗我部元親とも遠い親戚にあたると言われています。この2人の関係についても見ていきましょう。

先程、利三である斎藤利賢の後妻について解説しましたが、次は彼の前妻について触れなければいけません。以下の図をご覧下さい、

※参考:長宗我部元親の人物像やその妻について。子孫は続いてる?


斎藤利賢の前妻(利三の実母)は、室町幕府に代々仕えた蜷川(にながわ)親順という人物の娘です。きっかけは定かではないのですが夫の斎藤利賢と離縁し、父と同じ室町幕府の家臣である石谷光政(いしがい みつまさ)という人物と再婚しました。この2人の間に生まれた女性が、長宗我部元親の正室で、「元親夫人」と呼ばれる人物なのです。

つまり、利三と長宗我部元親の正室は、父親違いの兄妹という間柄になり、利三から見た元親は「義理の弟」という事になるのでしょうか。当人達がどのような認識を持っていたのかは分かりませんが…。


余談ですが、利三には兄がいました。この石谷頼辰(いしがい よりとき)という人物は、母の再婚相手の実家である石谷家を継承しています。利三や光秀が山崎の戦いで敗死した後は長宗我部元親の元へ逃亡し、その中央政界での経験を買われ重宝されたと言われています。

頼辰の娘は元親の嫡男である長宗我部信親に嫁ぎ、頼辰自身も信親の烏帽子親を務めました、しかし1587年、頼辰は娘婿の信親と共に、戸次川の合戦で戦死してしまいます。

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本能寺の変の原因!? 信長の四国討伐は何を引き起こしたのか


最近では、本能寺の変の要因を、この利三と元親の関係に求める声も多くなりました。一体どういう事なのでしょうか。

1575年、土佐(今の高知県)を統一した長宗我部元親は、縁戚の利三、そして明智光秀を通して、信長に四国地方の切り取り自由の許可をもらっています。しかし1582年になると、武田家や石山本願寺を屈服させた事もあってか、信長は元親に与えた「四国地方の切り取り自由」の約束を一方的に破り、四国東部を治めていた十河存保(そごう まさやす)に攻めかかります。

これに激怒した信長は四国討伐の準備を開始。これを恐れたのが、利三だと言われています。自分の義理の弟がこのままでは危ない…。この危機感を利三が光秀に訴えた結果、本能寺の変が勃発したという説があります。

この説とは別に、元親と対立していた十河存保のバックには、あの豊臣秀吉がいたと言われています。長宗我部元親と十河存保の対立は、織田家における光秀と秀吉の代理戦争という側面があったという説や、この時期織田家内での力を強めつつあった秀吉に危機感を抱いた光秀が、焦って本能寺の変を起こした…という考え方もあるようです。

真相が何なのか依然として定かではない本能寺の変ですが、今後斎藤利三と明智光秀、長宗我部元親の関係についての研究が進むにつれ、今までには発表されてこなかった新説が出てくるかもしれませんね。