大久保長安という武将をご存知ですか?

徳川家康が関東へ移封された後、その家臣として、主に内政面において大きな働きをした人物です。合戦において大きな働きをした訳ではないものの、彼の影響力は、江戸幕府初期において非常に大きなものでした。

大久保長安とは一体どのような武将だったのか。子孫の有無を含めてまとめてみました。

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【内政面での功績多数】大久保長安ってどんな武将?


まずは大久保長安がどのような武将だったのか、簡単にご紹介します。

大久保長安は1545年、武田信玄に伝えた猿楽師・大蔵信安の次男として生まれました。成長した長安は武田家の家臣、土屋昌続の家臣となり、性を大蔵から土屋へと改めています。「大久保」と名乗るのは家康に仕官してからであり、与力として仕えた大久保忠隣から賜ったものだと言われています。

長安が才能を発揮したのは、武芸ではなく内政面でした。武田家滅亡後の甲斐国の治世にはじまり、家康が関東へ移封された際も、この地域の再開発に大きな功績を残しています。こうした功績が高く評価され、各地の奉行職を経て、最終的には江戸幕府の最高の役職である年寄(後の老中)にまで昇進。「天下の総代官」と呼ばれる程、絶大な権力を誇っていました。また、家康の六男である松平忠輝の家老を務めていた事もあります。

この権力をもとに、長安は息子たちを諸大名の娘と結婚させる等、その影響力を高めていきます。伊達政宗とも親交があったと言われており、政宗の娘と主君である松平忠輝の婚姻を取り持ったとされています。しかし晩年になるとその権力も衰え、1613年で中風除でなくなります。死後、かつての不正を問われ、大久保家は改易される事になりました。その背景には、長安が仕えた大久保忠隣と、家康の側近である本多正信の対立があったと言われています。

※参考:本多正信の評価について解説。家康や松永久秀の正信像とは?

大久保長安と徳川家康の関係は…?


そんな大久保長安ですが、徳川家康とはどのような関係だったのでしょうか…。二人の間柄を詳しく見ていきましょう。

長安が徳川家康に仕えたのは、一般的には武田家の滅亡後、1582年頃だとされています。この年、家康が甲斐国に侵攻した際に、家康は長安の才能を見抜いて召し抱えたと言われています。その背景には、家康が住まう館を建設した、同じ旧武田家家臣の成瀬正一に依頼して自らの才能を売り込んだ、といった説があるとされています。

家康が関東へ移封された後、長安は家康から武蔵国の一部(今の東京の八王子市あたり)を与えられます。その際、長安は武蔵国の治安と国境警備のために、旧武田家の家臣を召し抱えた「八王子同心(はちおうじどうしん)」という組織を創設します。1590年の段階では、500名近くが所属していたこの組織は、その9年後には家康の命もあって構成員が倍になり、「八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)」と呼ばれる事になります。既に解説した内政面での功績もあわせ、この時期の長安は家康から厚く信頼されていたのでしょう。余談ですが、この「八王子千人同心」は長安死後も存続し、幕末には新選組のメンバーを輩出する事になります。

関ヶ原の戦いの後に、長安は金山・銀山の管理や勘定奉行、老中など幕府の要職を相次いで任される事となります。この時期の長安は家康の直轄領である150万石あまりの支配を任されており、家康の絶対的な信頼を受けていました。もっとも、晩年には所轄していた金山・銀山からの埋蔵量が減少するなどして、その信頼も減少していたったそうです。

余談ですが、長安には贅沢が好きという一面もありました。鉱山の視察に赴く際は多くの女性を引き連れる、自分の宿舎を現地の人々の事情を考えずに思い通りのデザインにする等の振る舞いがあり、家康はこの事を知っていたと言われています。長安の才能を認めいた家康は、彼の生前はこの点を咎めなかったものの、なくなった後には断罪しています。家康にとって長安は、才能を評価する事はあっても、その人柄までは良いとは思っていなかったのかもしれません。

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大久保長安の死後、子孫はどうなったのか…?


最後に、大久保長安の子孫がどうなったのかも見ていきましょう。

長安には7人の息子と2人の娘の、合計9人の子供がいたと言われています。しかし、息子たちは長安が生前に行っていた不正蓄財に関する調査を拒んだ事で、彼らは全て処刑されています。このため、長安の家系はここで途切れ、直系の子孫を残す事はできませんでした。

一方で長安には娘が2人おり、その一人はかの服部半蔵の次男、服部正重に嫁いでいます。服部正重の家計は桑名藩の松平家に召し抱えられており、その家系は幕末を通して存続。子孫は西南戦争に政府側として従軍しています。この家計の中に、長安の娘の血がもしかしたら入っているのかもしれません。

もう一人の娘は、長安と同じ武田家の旧臣である三井吉正(みついよしまさ)という人物に嫁いだと言われています。この三井吉正という人物は、現在の岐阜県加茂郡にあった上麻生村の(かみあそうむら)の領主を務めており、その家系は幕末まで存続しました。こうした家計の中にも、長安の血がもしかしたら残っているのかもしれません。

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まとめ


大久保長安は最初は武田家に仕え、その滅亡後は徳川家康に仕官します。主に内政面で主君を支え、金山の開発や都市開発において多くの実績をあげ、最終的には幕府のトップクラスの役職にまで昇進しています。

その一方で、長安には贅沢が好きという側面があり、また生前に不正を行ったとも言われるなど問題点も少なくない人物でした。死後、その罪を問われ長安の家系は断絶しています。

伊達政宗との関係性も深く、一説では政宗の天下取りを支援していたとも言われています。何かと謎が多い長安ですが、今後の研究においてその人物像が、より明らかになるかもしれませんね。

※参考:伊達政宗の凄さって何だったの?過大評価の真相に迫る!