豊臣秀吉の出世街道には、幾つかの要所がありました。中でも、ライバル柴田勝家との賤ヶ岳の戦いは、その最大級のものといえるでしょう。

この戦いによって、秀吉は天下取りへ向けた地盤を固めます。そしてこの戦いで俄に世に喧伝されたのが、秀吉の家臣である7人の若手の武将である「賤ヶ岳の七本槍」といった人々です。

今回は、この賤ヶ岳の七本槍のメンバーや、本当は9人だった?という説の検証、その後大名になれたのか否かを調べてみました。

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賤ヶ岳の七本槍のメンバーは9人いた!?


賤ヶ岳の七本槍のメンバーは、いずれも秀吉配下の福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元を指します。

彼ら七名に秀吉から感状が下され、功第一とされた福島正則の五千石を除き、一律三千石が加増されることになりました。


ところが、実はこの感状は9名にあてて書かれており、功名を認められた槍武者はあと2名存在しました。その二名とは石河兵助桜井佐吉です。
なぜ、この二名は除かれたのかという点については諸説あります。石河兵助は賤ヶ岳で戦死しており(そのため感状は弟宛てに出された)、桜井佐吉もこの時の負傷が元で数年内に死亡しているから、とか七名は秀吉の直臣であとの二名は陪臣だったため、とか言われています。

ただ、明らかなのは、七本槍あるいは九本槍という存在を喧伝する理由があったということでしょう。秀吉は織田家累代の家来ではなく、己の才覚のみによって立身したため、自身にも譜代の家臣を持っていませんでした。

天下を狙う秀吉にとって、これほど心細いことはなかったのだろうと思います。そのため身内を重用しなければならないし、こうした配下の勇名を喧伝することで彼らを一廉の武将にしたてあげる必要があったに違いありません。

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賤ヶ岳の七本槍のメンバーは大名になれたのか!?


では、彼らの中で大名にまで出世するのは誰だったのでしょう。

一人ずつ、その後の豊臣政権下での過程を解説します。


まず福島正則は、伊予・今治10万石のあと、尾張・清洲で24万石と大身の大名となります。
加藤清正も肥後半国でおよそ20万石を与えられています。
同じ加藤姓の加藤嘉明は淡路1万5千石のあと、伊予・松前6万石。
七本槍の最年長でもある脇坂安治は、摂津・能勢1万石、大和・高取2万石、淡路・洲本3万石と微増を重ねます。
もともとは別所家の家臣であった糟屋武則も、播磨国加古川で1万石に達しました。
浅井長政に仕えていた片桐且元も、賤ヶ岳の追賞で1万石を果たします。

一人、平野長泰だけが大和・十市5千石でとまってしまいました。これは秀吉とのウマが合わなかったためと言われています。


こうしてみると、同じ賤ヶ岳の七本槍の面々も、その後の処遇にずいぶんと差があることが分かります。

賤ヶ岳の七本槍のメンバーのその後の運命は?


賤ヶ岳の七本槍のその後は、一体どのようなものだったのでしょうか。関ヶ原の戦いと彼らの子孫に注目すると以下のようになります。


福島正則は東軍に与し、戦後は安芸、備後で49万石の大大名となります。大阪の陣では警戒されたのか、家康に江戸に留め置かれます。のち、広島城の無断改築が原因で改易。改易後は出家し、信州・川中島4万5千石に移され、その地で最期を迎えます。その末裔は旗本として幕府に仕えています。

※参照:福島正則の大坂の陣における行動は?晩年や子孫について!

加藤清正も東軍に属し、戦後は肥後一国54万石を与えられます。豊臣への恩顧の表れか、秀吉の遺児・秀頼の後見的立場に身を置くものの、その命数は大阪の陣を待たずに1611年に尽きてしまいます。その後は三男の加藤忠広が後を継ぎましたが、1632年に改易されてしまいます。子孫は山形に移住して庄屋になったと言われています。

※参照:加藤清正の子孫は現代もいる?墓が山形にある理由について!

加藤嘉明も東軍に属し、戦後は伊予・松前20万石。のち会津若松で40万石を領します。その後を継いだ明成はお家騒動の責任を取って1643年に改易されてしまうものの、その庶子の明友が近江の水口藩を創設し、幕末まで続きます。

※参照:加藤嘉明が秀吉に仕えた時期は?加藤清正や藤堂高虎との関係も解説!

平野長泰も東軍に属し、戦後は所領安堵されています。平野家は江戸時代を通して旗本として存続し、明治政府の石直しにより1868年に1万石の大名になりました。

※参照:平野長泰と秀吉の関係や関ヶ原の対応、子孫の有無について!

脇坂安治ははじめ西軍に属すも東軍へ寝返り、伊予大洲藩で4万5千石。その後信濃飯田藩をへて、譜代大名の堀田家から迎えた養子が播磨龍野に移封され、幕末まで存続します。

※参照:脇坂安治と李舜臣の関係は?関ヶ原での裏切りや子孫について

糟屋武則は西軍に属し、戦後は所領を没収されています。晩年については定かではなく、旗本として徳川家や前田家に仕えたといった様々な説が残されています。

※参照:糟屋武則とは?豊臣秀吉や黒田官兵衛との関係について!

片桐且元は、秀吉の死後、豊臣家臣でありながら徳川家臣でもあるといったような立場になります。大和国竜田で4万石の大名になるも4代目で改易。片桐家は且元の弟である大和国小泉藩の片桐貞隆の家系が幕末まで存続しました。

※参照:片桐且元をwiki風に解説。墓所や子孫の存在は?

まとめと感想


賤ヶ岳の七本槍とは、秀吉の子飼いの家臣であった福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋武則の7人を指します。
石河兵助と桜井佐吉を含め、メンバーは9人だったいう説もあります。

賤ヶ岳の七本槍や彼らの子孫のその後はなかなか大変なもので、改易されてしまう家も少なくありませんでした。

こうして概観しただけでも、人に仕えて世に生きることの困難さ、諸行無常といったものを感じずにはいられまん。

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