NHK大河ドラマ真田丸の影響で、石田三成の人気が上昇しているのだとか。どちらかといえば、これまで冷徹なイメージが強かった石田三成も、新婚の山本耕史さんが演じると真っ直ぐな印象になるのでしょうか。
その三成の妻(といっても、堀北真希さんのことではありません)「皎月院」とはどんな人物だったのでしょう。
この記事では、皎月院にスポットを当てて、彼女の父親である宇多頼忠や、三成との子供についてもご紹介します。
石田三成の妻「皎月院」とはどのような人物だったのか
皎月院とはどのような女性だったのでしょうか。大河ドラマ「真田丸」を見て、彼女について初めて知った、気になっているという方もいると思います。
三成は皎月院を「うた」と呼んでいました。皎月院が三成に嫁いだのは、秀吉に仕えるようになって間もない天正5年頃とされています。天正11年に誕生した嫡男・重家を含めて三男三女が生まれました(異説あり)。
関ヶ原の合戦の折は、三成の居城である佐和山城に篭りました。関ヶ原の本戦で西軍が大敗し、東軍が佐和山城に攻撃の手を向けると、奮戦もむなしく、最期は自刃して果てたとされています。
皎月院に関する記録はほとんど残っておらず、これは同時代の女性、例えば細川ガラシャなどと比べても、あまりに寂しいように思います。三成の妻ということがある種の妨げとなり記録に残すことが憚られた、ということもあったのかもしれません。ただ、そうした点を除いても、三成に最期まで添い遂げる様子から、おそらく生真面目で控えめな女性だったのではないかと思わずにはいられません。
※参照:細川ガラシャの夫は束縛系!?2人の関係や子孫はいるの?
皎月院の父親である宇多頼忠とは?
皎月院の父親は宇多頼忠という人物ですが、一体どのような武将だったのでしょうか。
宇多頼忠の姓である「宇多」は後から名乗った姓であって、元々は尾藤姓でした。尾藤氏はもとは信濃国守護・小笠原氏に臣従していました。武田氏の侵攻により小笠原氏が所領を失うと、遠江に移り、今川氏に仕えます。
桶狭間で今川義元が敗死すると、父重吉と長兄は森可成、次兄・知宣は秀吉といずれも織田家家臣に、頼忠は武田氏に臣従するなど一家は離散します。
宇多頼忠はこの時、武田家の宿将・真田昌幸に長女を嫁がせています。武田はいわば仇敵で、その傘下に入るための人質だったのでしょう。
その武田氏が長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ去ると、宇多頼忠は次兄・知宣を頼り近江・長浜へ赴き、兄の伝手によって羽柴秀長の家来となります。
皎月院が三成に嫁ぐのは、この後の時期となります。
その後、ようやく平穏な生活を手にした頼忠が尾藤姓を捨てるのは、次兄・知宣の事件が関係しています。
秀吉の九州平定の際、秀長に随行していた知宣は、慎重策から戦機を逃す失策を重ね、秀吉の逆鱗に触れてしまいます。所領没収・追放された知宣は、その後放浪の末に後北条に仕えましたが、秀吉の小田原平定を好機とみて、剃髪し宥恕を請いました。ところが却って秀吉の怒りを招き、処刑されます。尾藤姓を捨てたのは累を避けるためと言われています。
慶長5年、関ヶ原の合戦の折は三成の居城である佐和山城で東軍攻撃に晒されます。子の頼重、三成の父・正継、三成の兄・正澄らとともに奮戦するも、最期はいずれも自刃して果てたと言われています。
三成と皎月院の子供はどうなったのか?
では、石田三成と皎月院の子供は両親の死後、どのような運命を辿ったのでしょうか。
嫡男・石田重家は関ヶ原の合戦で西軍大敗の報に接すると、密かに大阪城を脱し、京都の妙心寺で剃髪・仏門に入ります。後、家康に助命され、父・三成と親交のあった春屋宗園の弟子となって104歳まで生きたとされていますが、出生年の記録への疑義から正確な享年は判然としません。
次男・石田重成は秀頼の小姓でした。関ヶ原の合戦での西軍大敗と佐和山城落城の報に接すると、同じ小姓仲間であった津軽信健の助力により、畿内を脱して津軽へと向かいます。杉山源吾と名を改め、後、津軽家の家老職となりました。
※参照:石田三成の子孫が青森にいた理由とは?現在の動向も紹介!
長女・某は、石田家家臣の山田隼人正に嫁ぎました。
次女・某は、蒲生家家臣の岡重政に嫁ぎます。後に重政は、蒲生家の御家騒動に関わったことで幕府から江戸に呼び出され、切腹という最期を迎えます(家康から駿府に呼び出されたとする説もあるようです)。重政との間には、お振りの方と呼ばれた娘があり、三代将軍・家光の側室となり、千代姫が生まれます。この千代姫は後年、尾張徳川家に嫁しますが、千代姫の次男は高須松平家の祖となり、幕末の会津藩主・松平容保へとその血は受け継がれてゆきます。重政亡き後は会津を離れ、若狭・小浜にて晩年を過ごしたといわれています。
三女・辰姫は、高台院(秀吉の正室・ねね)の養女となります。弘前藩二代藩主・津軽信枚の正室として嫁ぐも、後に家康の養女である満天姫が嫁したことにより側室に降格されてしまいます。弘前藩の飛び地である上野・大館に移った辰姫でしたが、信枚は参勤交代の折に必ず大館に立ち寄り、ともに過ごしています。大館で平蔵(後の三代藩主・信義)を出産した辰姫は33歳という若さで世を去ります。その後、平蔵は信枚の熱意によってを嗣子となります。
三男・石田佐吉は関ヶ原の合戦時、佐和山城に篭っていましたが、津田清幽の交渉により助命されます。父・三成と親交のあった木食応其の弟子となり出家し、津田清幽の忠義を思い法名を清幽と名乗りました。
それぞれに人生を歩む姿が、こうしてみると儚げでもあり、同時に頼もしくもあるように感じられます。
この記事のまとめ
石田三成の妻である皎月院にスポットが当てて、その父親である宇多頼忠や三成との子供たちについてご紹介しました。
皎月院のことはそこまで記憶に残っている訳ではないものの、父親の人生や3人の子供たちの姿から、その人生がどのようなものだったのかが見えてくる気がします。
三成と言えば側室を持たなかった事でも有名であり、この事からも2人の仲はとても良かったのではないかと個人的には感じました。
ちなみに以下の記事では、石田三成の家紋について解説しているので、興味があればご覧になってみて下さい。
※参照:石田三成の家紋の意味や由来を解説。九曜紋、下がり藤とは?