片桐且元と言えば、賤ヶ岳の七本槍の1人として、または豊臣家の家老として大坂の陣の勃発を食い止めようとしたにも関わらず、場内から内通を疑われて大阪城を退去した事で知られている人物です。
この片桐且元のプロフィールをwiki風にまとめてみました。
また、片桐且元の墓所の場所や、現在でも子孫はいるのかについても同時に解説します。
片桐且元のプロフィールをwiki風に解説!
まずは片桐且元のプロフィールをwiki風にご紹介します。
片桐且元の出身は近江国(今の滋賀県)で、もともとはこの地域を治めていた浅井長政に仕えていたそうです。そして、浅井家が信長によって滅ぼされると、かわってこの地域を治める事になった秀吉に仕官。
賤ヶ岳の戦いでは七本槍の1人に数えられるだけの働きをした結果、摂津国に3千石の領地を与えられます。(後に播磨国5千8百石を加増され1万石となります)
賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられたとはいえ、片桐且元が主に活躍したのは戦の後方支援であったり、あるいは検知奉行としての働きだったそうです。
九州征伐では軍船の調達を、小田原征伐後は鎌倉の鶴岡八幡宮の修復造営手配などを行ったり、あるいは伊予国や出羽国など、秀吉が新しく領有した土地の検知などを行ったとされています。
豊臣秀頼の後見人に秀吉から任命された且元は、関ヶ原の戦いでは西軍につくものの許され、その後は家康に協力する形で豊臣家の政務を取り仕切ります。
しかし、1614年に方広寺鐘銘事件が起こると、大野治房ら淀殿の側近から徳川方との内通を疑われた事を機に大阪城を退去。
大坂の陣では、秀頼や淀殿の助命嘆願の依頼を秀忠に通報し、豊臣家の滅亡に一役買うという役割を担う事になります。
そして大坂の夏の陣の20日後、且元は60年の生涯を閉じました。
一説では、豊臣家を滅ぼしてしまった事に責任を感じ、自害してその罪を償ったともされています。
大阪城を追い出される結果になったとは言え、この手でかつての主君を葬り去ってしまった事が耐えられなかったのかもしれません。
片桐且元の墓所はどこにあるの?
また、片桐且元の墓所は現在でも残っているのでしょうか。
且元は生前から「豊臣家を裏切った逆臣」として汚名をきせられており、その家も改易されているので、もしかしたらお墓は残ってないのではないか…と思いながら調べてみました。
すると、京都府の大徳寺と静岡県の誓願寺の2つが、片桐且元の墓所である事がわかりました。
まず前者の京都府の大徳寺ですが、片桐且元の他にも、蒲生氏郷や立花宗茂、石田三成や細川忠興夫妻などの名だたる戦国武将の墓がある事で知られている寺院です。
一方、後者の静岡県の誓願寺ですが、方広寺鐘銘事件の際、且元が豊臣家の弁明を行うため滞在した寺院でもあります。
この地に片桐且元の墓を建立したのは、且元の弟である片桐貞隆の長男、片桐貞昌だったのだとか。
誓願寺の且元の墓の近くには「方広寺大仏鐘銘事件弁明のため誓願寺に滞在した豊臣家重臣 片桐且元公の墓」という案内板が飾られていて涙を誘います。
片桐且元の子孫は現在でもいるの?
片桐且元の死後、彼の子供や一族はどうなったのでしょうか。
また子孫の方は現在でもいらっしゃるのでしょうか。
片桐且元には四人の男子がいたとされてますが、長男が早世してしまったため、次男の片桐孝利が後を継ぎました。
また、片桐孝利には子供がいなかったため、その弟にして且元の四男である片桐為元を養子に迎えています。
しかし、この片桐為元の長男である為次が15歳の若さで子供を作らずに亡くなったため、片桐家は改易され大名ではなくなってしまいます。
その後、片桐家は旗本として再興するのですが、跡取りが思うように出来ず、結果として片桐且元の直系は途絶えてしまいます。
つまり、片桐且元の直系の子孫はいないという事になりますね。
ただ、片桐家そのものは、且元の弟である片桐貞隆のもとで江戸時代を通して続きました。
片桐貞隆は兄より4つ離れた1560年に生まれ、小田原征伐や文禄の役に従軍するなど、荒々しいタイプの武将だったそうです。
その後は且元と共に豊臣秀頼に仕えるものの、方広寺鐘銘事件がきっかけで兄と共に大阪城を退去。
その後大和国に1万5千石の所領を与えられ、これが明治時代の廃藩置県まで続くことになります。
片桐且元の直系の子孫は現在ではいないものの、その弟である片桐貞隆の子孫の方は現在でもいらっしゃるようです。
ネットを調べてみるとこのようなコメントがありました。
4. 片桐 2014年10月07日 21:04
失礼します。
私は長野県に在住の片桐と申します。
名前から解るとうり
片桐且元の子孫にあたります。
と言っても且元の家系は断絶していますので、
且元の兄弟の元則からの家系になります。
私の住んでいる所が片切氏発祥の地であります。
たまたまこのページを見させていただきましたので
コメントさせていただきました。
非常に興味深かったです。
ありがとうがざいました。
※引用:http://blog.livedoor.jp/kinginsango/archives/2532507.html
片桐家は長野県が発祥なのですね。私自身もはじめて知りました。
なお、片桐且元の兄弟は片桐貞隆しかいないので、この「且元の兄弟の元則」が片桐貞隆に当たるのだと思われます。
この記事のまとめ
片桐且元のプロフィールをwiki楓に紹介したり、その子孫の方が現在でもいらっしゃるのかについてご紹介しました。
片桐且元は豊臣家を裏切った武将という事で、当時から避難の声は高かったそうですが、こうした悪い評判を持つご先祖様を持って、片桐家の子孫の方は大変苦労をされたのだと感じました。
その心境が、誓願寺にある且元の墓の傍らに掲げられた碑文に刻まれていると思わざるを得ません。
また、以下の記事では片桐且元を含めた「賤ヶ岳の七本槍」について解説しているので、興味があればご覧になってみて下さい。
※参照:賤ヶ岳の七本槍のメンバーまとめ!その後大名になれた者は?
私の母方が片桐姓で、系図の中に片桐且元の名前が記載されているところがあります。出身はどうも長野県信州の出のようです。
私が保存しているのは、当時のコピーのようで、原本は既に切り刻まれて、無いようです。
且元は途中で名前を且元に改めています。
そんな系図が私の手元にありますので、参考にお知らせします。
初めまして、私は片桐善彦と言います。
私の父は片桐満男と申しまして出は長野県下伊那郡根羽村でございます。
現在は愛知県名古屋市に在住です。
この11月に母が亡くなり 葬儀の為 片桐家の家紋、ルーツを知りたく検索しておりましたら そちら様に突き当たりました。
信州とゆう事で遠い親戚筋に当たるかもと思いまして返信させて頂きました、どうぞ宜しくお願い致します。
昔からこれがこれがと親も言わないので、ここへ書いて良いものかも迷いましたが滋賀県北部の誰も足を踏み入れない山の中腹に汚いボロボロの御影石ぽいけどザラザラの墓はあります横に豊臣家臣とも彫られてました
切り刻まれたのなら偽物かもしれませんがボロボロの巻物もあります。
子孫にNGT48の西村菜那子がいます。番組で告白しました。サイトアドレスはこちらです。
https://www.dailymotion.com/video/x5rykxh
詳しくは分かり次第送信させていただきます。
私の母方の実家が片桐と言います、富山県砺波市です、寺の過去帳によれば、加賀藩、前田利長に仕えるようになって、その人の隠居領が元だそうです。覚えているのそれぐらいです、本家の片桐家は、今でも大きな家です。以上!
学生時代の23年前になりますが、片桐且元の流れを組む女子高生と浜松市で知り合う機会がありました。
家系図的も見させてもらいました。
片桐歯科の医者は大和郡山市の同級生で片桐が支配した小泉にでかい実家がありますよ 且元の弟のホントの末裔ですよ
片桐歯科は大阪市の肥後橋にあります
大和郡山市小泉町に小泉藩陣屋跡があり、内堀内の高林庵(お城)に「片桐」の表札があり、且元の弟の直系の方々がおられます。且元の弟の池に浮かぶ立派な供養塔は「慈光院」(小泉町)にあります。また近隣に小泉藩士のひいひい孫等もお住まいです。