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あなたは石田三成という歴史人物を知っていますか?

最近、ゲームやドラマで名前をよく聞きますが、どんな人だったのか、いまいちよくわからないですよね。

三成は、徳川家康と関ヶ原の戦いをした人物でもあるんですよ。あの家康と戦うなんて、三成は強い人だったのでしょうか。それとも、家康と同じくらい頭のいい人だったのでしょうか。

三成がどんな人だったのか、年表を使いながら小学生にもわかるようにまとめてみました。
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石田三成とはどんな人だったのか


石田三成は1560年に、近江国(現在の滋賀県)で生まれました。
豊臣秀吉に気に入られたことをきっかけに、10代半ばからその小姓として働きはじめます。

この頃の三成の性格を表すエピソードとして、秀吉にお茶を出すときに、秀吉が飲みやすいように最初はぬるいお茶を出し、だんだん熱いお茶を出したというものがあります。
三成は子どもの頃から細かいことによく気が付く人だったみたいですね。

秀吉が天下統一を進めるにつれ、三成も秀吉の部下としてどんどん出世をし、主に武器や食料の補給などの事務的な仕事を担当しました。計算や管理が得意な人だったのでしょうね。


その一方で、三成は戦いはあまり得意ではなかったみたいです。秀吉が関東の北条家を攻めたとき、三成は「忍城の戦い」という戦で負けてしまい、「戦下手」と呼ばれています。

そのせいか、戦が得意な武将たちとは仲が悪かったようです。頭がよくて細かいことに気が付く三成は、豪快な性格の戦国武将たちには面白くない人に思えたのかもしれませんね。三成と戦上手の武将たちとの対立は、関ヶ原の戦いで三成が負ける原因の一つにもなりました。

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石田三成のわかりやすい年表


ここからは、石田三成の年表を、小学生にもわかるようにご紹介します。

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▲1560年(0歳)
近江国(今の滋賀県)の武将、石田正継の次男として生まれる。


▲1574年(14歳)
羽柴秀吉(=豊臣秀吉)の小姓として働き始める。

※参照:石田三成とお茶の逸話。三献茶や大谷吉継の話の真偽に迫る!


▲1583年(23歳)
賤ヶ岳の戦いで、一番槍(最初に手柄を挙げること)の働きをする。


▲1585年(25歳)
朝廷から「従五位下治部少輔」という勲等を貰う。


▲1590年(30歳)
秀吉が北条氏政、氏直に対する小田原征伐を行う。
三成は北条側のお城である「忍城」を攻めるも失敗する。

※参照:石田三成は戦下手?忍城攻めや関ヶ原の戦いから検証!


▲1592年(32歳)
文禄の役を行うにあたり、朝鮮出兵の総奉行になる。
明と講和をするにあたり、積極的に活動をする。


▲1595年(35歳)
秀吉の甥である豊臣秀次の切腹に関係する。
19万4千石の領地をもらい、佐和山城の城主になる。

※参照:豊臣秀次の切腹と石田三成の関係は?若江八人衆のその後も解説!


▲1597年(37歳)
慶長の役にあたり、弾薬や食料の補給といった後方支援を行う。


▲1598年(38歳)
秀吉が死亡。
朝鮮出兵の撤退業務などを行う。


▲1599年(39歳)
三成に不満を持った人物に襲われる(石田三成襲撃事件)。


▲1600年(40歳)
関ヶ原の戦いに出陣。家康側に捉えられたのち、処刑される。

※参照:石田三成の子孫が青森にいた理由とは?現在の動向も紹介!


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年表を見てみると、石田三成は第一線で活躍するというよりも、事務仕事や後方支援の仕事が多かったことがわかりますね。そんな三成がなぜ関ヶ原の戦いで戦うことになるのでしょうか。次の章でくわしく解説します!

関ヶ原の戦いを小学生向けに解説


関ヶ原の戦いとは、1600年に現在の岐阜県で起こった戦いのことで、秀吉死後の覇権をめぐって石田三成率いる豊臣軍と徳川家康率いる徳川軍が戦いました。

この時、徳川家康は自分が天下を取るために戦を仕掛けたのに対し、石田三成は秀吉の恩返しのために豊臣家のために戦います。ですが、豊臣家とつながりの深い戦上手の武将たちの多くが、「三成憎し」の感情から家康に味方しました。

それでも豊臣軍と徳川軍の兵士の数はほぼ同じでしたが、小早川秀秋らの裏切りによって、最終的に豊臣軍が負けてしまいます。その後、豊臣軍の中心人物として戦った三成は処刑されてしまいました。

ちなみに、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利することよって大きな敵がいなくなり、この3年後に江戸幕府を開きました。

※参照:関ヶ原の戦いの裏切りとその理由。東軍から西軍に裏切った武将とは?

この記事のまとめ


石田三成とはどんな人だったのか。
このテーマについて、年表や関ヶ原の戦いにも触れながらご紹介しました。

三成は頭がいい人物で、それを活かして秀吉の天下統一に尽くしてきました。
今で言うところの「官僚」や「秘書」のような人ですね。

10代で秀吉に仕え、死ぬまで豊臣家に尽くす姿勢には頭が下がります。

そうした三成の人となりを快く思わない武力派の武将たちと仲が悪くなり、関ヶ原の戦いの後に処刑されてしまったのはとても残念です。三成はきちんと仕事をこなす一方で、武力派への武将たちへの気配りというところまでは足りなかったのかもしれませんね。

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