戦国時代の幕を開けた後北条氏の、初代当主である北条早雲。
一介の浪人から一国の主にまで登り詰めた下剋上を体現したとされる彼の出自は、一体どのようなものだったのでしょうか。
この記事では、北条早雲の出自や彼の3人の妻、その墓所についてご紹介します。
北条早雲の出自について。一介の浪人ではなかった?
北条早雲は、一介の浪人から一国の戦国大名にまで登り詰めたという説がかつては定説でしたが、近年の研究では早雲は室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏が出自という説が主流となってきています。
早雲の生年は、かつては1432年が定説でしたが、現在では1456年生まれ説の方が有力視されつつまります。仮に後者が正しいとなると、早雲が大森藤頼から小田原城を奪取したのは40歳になるため、早雲を遅咲きの武将とする論調は間違っていると言わざるを得なくなります。
北条早雲は、伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれ、もともとは伊勢新九郎盛時と呼ばれていました。早雲のもともとの姓である伊勢氏は足利尊氏の代から使える幕臣であり、早雲の父である伊勢盛定は、備中国の荏原荘の半分を領する領主で、室町幕府6代将軍である足利義教に仕えていた時期もあったそうです。
北条早雲もこの父に従い、若い頃は岡山県に居住していたそうです。その後は足利将軍家に仕え、また今川家の内紛に関わったのも、父親の代理という役割があったとされています。
また、伊勢家が北条という姓を名乗るようになったのは、早雲の時代ではなく、早雲の嫡男である氏綱の時代からとされています。早雲が生存していた時には北条早雲と名乗っていた確実な資料はありません。氏綱がなぜ「北条」を名乗ったのかは以下の記事で解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さい。
※参照:北条氏綱が北条の名字を名乗った理由は?江戸城攻略や遺言について!
北条早雲の3人の妻とその間の子供について解説
北条早雲の妻には、一体どのような女性がいたのでしょうか。
早雲には、正室の南陽院殿の他に、葛山氏、善修寺殿という2人の側室がいました。
このうち正室である南陽院殿は、室町幕府奉公衆の小笠原政清の娘とされる女性です。
1485に早雲と結婚し、その2年後には嫡男の北条氏綱が誕生しました。また、他には早雲の次男とされる北条氏時という人物の母であったと言われています。
また、側室の葛山氏の実家は駿河国東部の豪族で、早雲の小田原攻めに協力した人物として知られています。早雲はこの葛山氏との間に三男とされる葛山氏広を産んでいます。
最後の善修寺殿という女性は伊豆の狩野氏を実家としており、早雲の四男で北条五代全てに仕えた北条幻庵ら3人の子供の母とされる人物です。
北条早雲が埋葬されている2つの墓とは?
北条早雲の墓がどこにあるのかご存知ですか?
早雲は、北条家が本城としていた小田原城ではなく、伊豆の韮山城にて亡くなりました。
その後、それまで真覚寺と呼ばれていた箱根の寺に埋葬され、その寺は早雲の嫡男である北条氏綱によって「早雲寺」と名称が変わりました。早雲寺の境内は、箱根湯本全域という広大な範囲に及び、早雲の四男である北条幻庵が作成した庭園があると言われています。
この早雲寺ですが、豊臣秀吉が小田原攻めを行う際に築いた石垣山一夜城の完成後に秀吉らによって焼き払われてしまいました。現在の早雲寺は江戸時代に再建され、現在の神奈川県の箱根町にあります。
寛文12年(1672)には、北条氏の末裔とされる河内狭山藩が、始祖である早雲から北条氏が秀吉に滅ぼされる氏直までの北条5代の墓と肖像を寄進したとされているので、後北条氏ファンの方は機会があれば訪れてみるのもいいでしょう。
※参照:後北条氏はその後どうなったの?北条家の子孫について解説!
さらに、高野山にある真言宗の総本山である金剛峯寺も、北条早雲の墓がある場所として知られています。戦国時代の高野山は早雲ら後北条氏の金銭的な支援を受けており、北条家の菩提寺(=縁が深いお寺)となっています。秀吉による小田原征伐後、5代目の氏直がこの地へ流罪となっている事からも、高野山と後北条氏の関係が伺えますね。
この記事のまとめ
北条早雲の出自は一介の浪人ではなく、れっきとした室町幕府の役人でした。その生年はまだ確定してないものの、少なくとも遅咲きの武将という評価は揺らいでいると言えるでしょう。
また、北条早雲には正室の南陽院殿、そして側室の葛山氏、善修寺殿という3名の妻がいました。その血を引く者たちが、100年にも及ぶ後北条氏の繁栄を築いていく事になっていきます。
北条早雲の墓所は神奈川県の早雲寺と和歌山県の金剛峯寺の2箇所にあります。
休日などに訪れてみるのもいいかもしれませんね。