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1万円札の肖像画や慶應義塾大学の創設でおなじみの福沢諭吉ですが、出身地がどこだったのか、実際にどんな功績があった人なのかは今ひとつ知られていないような気もします。


また、同時期に設立された早稲田大学の創設者である大隈重信とは、何かしらの関係はあったのでしょうか?


ここでは、福沢諭吉の出身地や功績、そして大隈重信との関係について解説したいと思います。
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福沢諭吉の出身地や出生地はどこなの?


福沢諭吉の出身地がどこなのか、ご存じですか?
もともとは江戸幕府に仕えていた事から、福沢諭吉は東京出身じゃないの?と思う方もいるかもしれません。

福沢諭吉は、豊後国中津藩(いまの大分県中津市)の下級藩士・福沢百助の次男として、大坂・堂島(いまの大阪府大阪市福島区)に生まれました。
生後まもない福沢諭吉は、父親の仕事の都合で、大坂・堂島の中津藩の蔵屋敷でその時期を過ごします。1歳のときに父が亡くなり、中津藩に戻った諭吉は、8歳ころから漢学を学びはじめるとすぐに頭角を現します。

19歳で長崎に留学した福沢諭吉は、20歳で大坂にあった緒方洪庵の適塾に入塾。23歳の頃には藩の命令で、江戸の中津藩中屋敷に蘭学の塾を開くのですが、これがのちの慶應義塾のはじまりといわれています。

その後、独学で英語を学んだ福沢諭吉は、29歳のとき幕府の外国奉行のもとで翻訳の仕事に携わるようになります。これは臨時のお雇いではなく、幕府の直参つまり旗本としての登用でもありました。

ここまでで述べたとおり、福沢諭吉の出生地としては大坂であり、出身地としては中津藩ということができます。

福沢諭吉の功績を5つに分けてまとめてみた


福沢諭吉の最大の功績は、幕末から明治にかけて翻訳という技術をもって外国との架け橋となったことだと考えられます。

おかげで、日本人は日本語を失うことなく、西洋文明を吸収できました。
明治期の急速な近代化は、こうした背景を抜きにしては考えられません。

福沢諭吉は、それ以外にも多くの功績を残しています。
以下で簡単にご紹介します。

功績その1:翻訳者として洋書の翻訳にあたった


前述した通り、福沢諭吉は翻訳者としての功績が知られている人物です。適塾の塾生時代には、その翻訳のスキルを買われて洋書の翻訳を行う事を条件に塾への住み込みが認められている程でした。その後も江戸時代末期の錯綜する国際情勢の中、外国から届く外交文書の翻訳にあたり、旗本として江戸幕府の外交を支えました。

功績その2:言論人として様々な提言を行った


明治時代になると、諭吉は言論人として政府とは異なる立場で様々な主張を行っています。不平士族問題解決のために地方分権を推奨し、木戸孝允と学制を制定したほか、新聞に「国会論」を掲載するなど国会開設や憲法制定にも尽力しました。

功績その3:作家として様々な書物を記した


福沢諭吉の功績の中で1,2を争うものと言えば、当時の大ベストセラー『学問のすすめ』を記し、その中で実学を推奨した事ではないでしょうか。これ以外にも諭吉は『西洋事情』や『福翁自伝』、『文明論之概略』など多くの著作を記し、それらの中には今なお多くの人に読まれているものも少なくありません。

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功績その4:多くの学校の設立に関わった


福沢諭吉の功績として一般的に有名なのは、慶應義塾を創立した事だと考える方もいるかもしれません。実は諭吉は慶應義塾以外にも、東京専門学校(早稲田大学)や専修学校(専修大学)、商法講習所(一橋大学)など、当時設立された多くの学校の設立に関わっているのです。

功績その5:近代日本の商業の発展に尽力した


中央銀行の概念や複式簿記、保険制度などを日本に導入し、近代日本の商業の発展に尽力したのも諭吉の功績と言えます。
前述した商法講習所や神戸商業講習所(神戸商業大学)などの商科大学の設立に尽力した事も、諭吉が日本の商業の発展に尽くした功績と言ってもいいかもしれません。

福沢諭吉と大隈重信の関係は?知り合ったきっかけは?


福沢諭吉と言えば慶應義塾大学を設立した事で知られてますが、この事から、早稲田大学を設立した大隈重信とは面識があったのか?あるとしたら仲は良かったの?と疑問に思われる方もいると思います。

この2人は、最終的には「盟友」と言ってもいい関係になります。

ただ、直接の面識がない段階では、2人はお互いの事をあまり良く思っていませんでした。
そこで、両者と面識がある雑誌の編集者が2人を会わせるために酒席を設けたところ、福沢諭吉と大隈重信は意気投合してしまったそうです。

この時、諭吉に学校の設立をすすめられた事が、大隈が後に東京専門学校(早稲田大学)を設立する事になったきっかけだと言われています。開校式の際、当時の政変の影響で式に出席できない大隈に代わり、祝辞を述べたのは福沢諭吉でした。


また、福沢諭吉は大隈重信が佐賀出身である事にも注目していました。
門閥制度は親の仇と公言し、ベストセラー『学問のすすめ』でも「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と書いた福沢は、明治政府の薩長閥に対しては根本的に対立感情を持っており、薩長閥ではない大隈に目をかけていたとも言われています。

一時期の福沢諭吉は、参議である大隈重信配下に門下生を送り込み、憲法の草案作成を行わせようとしていました。結果として、伊藤博文らが大隈・福沢派を政府から追放した明治14年の政変により目的はとん挫してしまうのですが、以後も二人の交際はつづきました。

※参照:伊藤博文ってどんな人?年表や業績を小学生むけに解説!


後日談ですが、福沢諭吉が死亡した際、遺言により遺族は供花などを断っていました。
そこへ大隈からの供花が届きます。遺族はこればかりは、と丁重に受け取ったといいます。

ふたりの友情が浅からぬものであることを示しており、まさに盟友であることが分かります。

この記事のまとめ


今回は、福沢諭吉の出身地と功績、大隈重信との関係を中心にご紹介しました。

早慶戦というと学生スポーツの因縁の一戦のようにも聞こえますが、二校は福沢と大隈の友情を継承し、創立記念日には互いに招待しあう関係をつづけているのだとか。

福沢諭吉の人としての温もりがとても伝わってくる逸話で、こうした人柄を踏まえて、もう一度、福沢諭吉という人間を見つめてみるのも面白いと思います。

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