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桶狭間の戦いと言えば、織田信長を語る上で必ずと言ってもいいほど出て来る有名な合戦ですよね。しかしこの戦いの詳細についてご存知の方は、案外少ないのではないでしょうか?


そこで今回は、桶狭間の戦いが発生したきっかけや合戦が行われた場所、そしてこの戦いに影響を及ぼしたとされる「情報」の重要性について検証を行ってみました。
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桶狭間の戦いが発生したきっかけについて解説!


織田信長の天下統一の足掛かりとして有名な桶狭間の戦いですが、この戦いが起こるきっかけは何だったのでしょうか?

1560年5月、今川義元は大軍を率い信長が治める尾張国へ向けて侵攻します。従来ではこの義元の行動「上洛」「天下取り」という文脈で語られる傾向にありましたが、現在では義元は上洛をするつもりはなく、せいぜい尾張1国その支配下に納めようとする意思があった程度だという説が有力です。

当時の義元は既に家督を嫡男の氏真に譲り、元々の領土である駿河、遠江を彼に任せる一方、自身は三河国の統治に力を入れていました。そしてこれが一段落付いた後、西の尾張へ勢力を拡大させていった状態だったのです。

一方の織田家は1551年に信長の父、信秀が病没。その後も信長と弟の信行の家督争いが勃発するなど、決して一枚岩とは言えない状態でした。そして尾張国南東にある大高城が攻略されると、信長はこの城のまわりに丸根砦鷲津砦を築き、今川家に備えます。

そして6月12日、今川軍は丸根砦、鷲津砦を攻撃します。これが桶狭間の戦いが起こる直接のきっかけでした。2つの砦は落とされますが、これに油断した義元の本体を信長が一気に攻撃してその首をあげる…というのが、戦いの一連の流れになりますね。

※参照:今川義元の評価を政治、外交、軍事面の3方向から考えてみた

桶狭間の戦いが行われた場所はどこだったのか?


続いて、桶狭間の戦いが行われた場所について見てみましょう。

まず今川家が桶狭間の戦いで根拠地とした大高城、そして丸根砦、鷲津砦は現在の名古屋市緑区にあります。この緑区は名古屋市の最も南東に位置しており、東には今の東海市と大府市が隣接しています。

ところで、桶狭間の戦いの「桶狭間」とは今のどこに当たるのでしょうか?

「信長公記」によると、義元は「桶狭間山」という場所で休息をしていた所、信長の急襲を受けたと言われています。しかし現在、この桶狭間山という地名は残されていません。

・・・では、義元がいた場所はどこだったのでしょうか?実は候補となっている場所は2箇所あります。現在の愛知県名古屋市緑区にある桶狭間古戦場、そして愛知県豊明市にも桶狭間の戦いの石碑が立っています。両者の違いですが、豊明市の方は「戦場」という位置付けが強いのに対し、緑区の方が「今川義元が討ち死にした場所」という色合いが強いと言われています。

少なくとも、緑区にある桶狭間古戦場公園と豊明市の古戦場の間が、合戦が行われた場所だったと考えて良いでしょう。現在ではこの二つのちょうど中間地点に「おけはざま山今川義元本陣跡碑」と呼ばれる碑文が置かれてあり、当時の面影を偲ぶことができます。

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桶狭間の戦いにおいて「情報」が果たした役割の真偽とは?


桶狭間の戦いと言えば織田信長が雨の中で行った奇襲戦だとの認識が強いですが、一方で信長が今川家の情報を巧みに集めていたと言われる説も有力です。

その根拠として、この戦いの後で行われた論功行賞において「第一の功績」とされたのが、義元を討ち取った毛利新助や服部小平太ではなく、義元の本陣の位置を信長に知らせた簗田出羽守に与えられている事が挙げられます。また、義元を討ち取る日の前夜、信長は情報が洩れるのを防ぐため軍議も行わず明朝少人数だけで熱田神宮へ出陣し、その情報を聞きつけた部下たちが徐々に集まってくるよう仕向けたとも言われています。

その一方で、簗田出羽守に与えられた「第一の功績」というものは過剰表現であり、実際は「信長記」や「武家事紀」といった資料に記されている「築田の功績は義元を討ち取った毛利新助の功績より上」「その功績として沓掛を与えられた」というフレーズを拡大解釈したに過ぎないという説も存在します。

また、信長の奇襲はこうした情報の元に行われたのではなく、悪天候や今川軍の陣形の乱れ等の結果成功したという説も依然として存在しており、「桶狭間の戦いは情報戦だった」とは一概に言えない面もあります。

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この記事のまとめ


桶狭間の戦いが発生したきっかけや行われた場所、そして「桶狭間の戦いは情報戦だった」という説の検証を行ってきました。

この戦いが奇襲戦だったか情報戦だったかに関しては決定的な資料がなく、今後の研究が待たれる所だと言えます。ただこの戦いによって討死したのは義元だけではなく、松井宗信や久野元宗、由比正信といった今川家の有力な武将の多くが討死し、これによって今川家は衰退の一途を辿り始めたのも事実です。

ちなみに今川方で討死した武将の中には、大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公、井伊直虎の父親でもある井伊直盛もいました。この二人については以下の記事で解説しているので、興味があればご覧になってみてくださいね。

※参照:井伊直虎の父親や婚約者について。井伊直政との関係は?