大河ドラマ「真田丸」では小田原征伐が話題になってますが、その際の徳川家康はどのような役割を果たしていたのでしょうか。
合戦前に、家康と北条氏政のやり取りが描かれていましたが、史実でも何かしらの交渉を任されていたのでしょうか。
この記事では、小田原征伐における徳川家康の行動や、家康と北条氏政の弟、北条氏規のやり取りなどをご紹介します。
小田原征伐における徳川家康の行動は?
天正18年(1590年)の春頃、秀吉は惣無事令違反を大義として北条討伐の軍令を発し、徳川家康もこれに加わりました。
同年3月、徳川家康軍3万は、主力部隊として豊臣秀次軍とともに東進し、小田原支城戦の緒戦では松田康長の守る山中城攻めの一翼を担いました。籠城兵4千の山中城は7万近い寄せ手にわずか数時間で落城します。
徳川勢は攻勢を緩めず、同日鷹ノ巣城を、翌々日には足柄城を落とします。
やすやすと小田原城に迫った秀吉は、そのまま包囲網を形成するとともに石垣山に一夜城の築城を開始します。また、茶会を催し、市をたて、遠く京阪の地から妻女を招き、北条の戦意を削いでしまいます。
その一方、前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら信州諸軍から成る北方隊は、松井田城・厩橋城・箕輪城と上野を攻略します。これに加勢するため、家康は別働隊を編成・派遣する一方、自身は韮山城で籠城を続ける北条氏規を説得、開城させることに成功します。4万を超える豊臣軍に4千足らずで4か月以上韮山城を守った氏規の武勇は只事ではありません。
この氏規と家康は浅からぬ縁にあり、豊臣対北条という大きな歴史のうねりに翻弄されつつも、確かな信頼を相互に抱いていたことが伺えます。
また、そもそも家康にとって、北条は同盟国であり、当主の氏直には娘・督姫を嫁がせていただけに、忸怩たる思いがあったのではないでしょうか。
※参照:徳川家康の5人の娘について。亀姫、督姫、振姫の生涯とは?
合戦前に行われた徳川家康と北条氏規のやり取りについて
家康と北条の同盟は、天正10年に遡ります。いわゆる天正壬午の乱ののち北条と和睦し、娘の督姫を氏直の正室として嫁がせていました。
そうした背景から家康は、秀吉の対北条外交官のような立場に立ち、北条氏政・氏直親子に対して、ことあるごとに上洛と秀吉への恭順を勧めることになります。これに対し、北条方の窓口となったのが北条氏規でした。
なお、北条氏規と家康は、かつて今川義元の人質時代を共に過ごした親しい仲と言われています。
※参照:今川義元が家康に施そうとした「むごい教育」とは?
天正16年(1588年)5月、家康は北条氏政・氏直に宛て起請文を送り、説得を試みます。
その内容は、以下のようなものでした。
・家康は氏政・氏直について秀吉に讒言しない。北条領も望まない。
・氏政の兄弟衆を上洛させること。
・豊臣家への出仕を拒むなら、娘・督姫を離縁させる。
この結果、8月に氏規が上洛し、暫定的に豊臣・北条の関係に安定がもたらされました。
しかし翌天正17年(1589年)2月、北条は真田氏との紛争地である沼田の扱いについて秀吉に裁定を仰ぐこととなり、板部岡江雪斎が上洛します。真田丸でも取り上げられた沼田裁定ですね。
その結果、12月の北条氏政の上洛を前提に秀吉は沼田を北条領としますが、この後、氏政の上洛時期について交渉が決裂します。直後、北条方が真田方の名胡桃城を奪ったとされる名胡桃城奪取事件が引金となり、小田原征伐へと事態が急転することとなります。
この間、徳川家康と北条氏規は、どのような思いで経緯を見守っていたのでしょうか。
小和田城の開城において家康が果たした役割について
5月になると、かつて北条と同盟を結んでいた伊達政宗が秀吉の要請により小田原入りを果たします。これによって、誰の目にもこの戦いの終末が見えてきたに相違いなく、囲む豊臣軍の軍律も乱れ、囲まれる北条軍にも離反の動きを見せるようになります。
6月に入ると、徳川家康と北条氏規らによる和平交渉が進みました。一説には伊豆・相模・武蔵を安堵するとの条件によって北条が降ったともいわれています(異説あり)。
時を同じく、鉢形城・韮山城・津久井城が開城し、八王子城が落城しました。北条氏規は秀吉に出仕し、氏政・氏直に降伏勧告を行うこととなります。
戦後、氏規は秀吉に許され、河内・丹南郡2千石、同・河内郡7千石をあてがわれ、大名には届かないものの、狭山城城主として厚遇を受けます。
一方の北条氏政は切腹。氏直は高野山に流され、伯耆1国をあてがわれる形で大名に復帰する可能性もあったそうですが、1年後に亡くなってしまいます。
慶長5年、関ケ原の合戦の年である1600年に56歳の天寿を全うした北条氏規は、家康の天下を見ずに世を去りました。その子氏盛は狭山藩主となり、北条家は家康の築いた江戸時代を生き抜いて明治にまで家名を残しました。
この記事のまとめ
今回は、小田原征伐における徳川家康の行動を、北条氏規とのやり取りなどを踏まえてご紹介しました。
家康は豊臣方の主力として小田原征伐に貢献する一方、合戦前や小田原城の開城でも秀吉と北条家をつなぐ重要な役割を果たしています。
娘である督姫を北条氏直に嫁がせていた事や、北条氏規という同じ今川家の人質を経験した知人を持つだけあって、心のどこかでは北条家を助けてあげたいという気持ちが、家康の中にはあったのではないかと思います。
ちなみに以下の記事では、後北条氏のその後やその子孫について詳しく解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さい。
※参照:後北条氏はその後どうなったの?北条家の子孫について解説!