小学校6年生になると社会科で日本の歴史について学びますが、その中で、必ず出てくる人物のひとりが藤原道長です。
一体どのような人物だったのか、調べることがあるかもしれませんね。
今回は、藤原道長について、小学生の方でもわかるような年表をご紹介すると共に、どんな人だったのかをご紹介します。
藤原道長ってどんな人?小学生にもわかりやすく解説
藤原道長は平安時代の中ごろ、10世紀後半~11世紀前半の人。天皇に仕えた貴族で政治家です。
それでは、まずは藤原道長の生涯をざっと年表で見てみましょう。
(年齢は数え年のものを採用しています)
・966年(1歳)
藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の5男として生まれます。
・986年(21歳)
父親の藤原兼家が、道長の姉でもある
娘の詮子(せんし)が生んだ一条天皇の摂政になります。
※参照:藤原道長の母親はどんな人?姉の詮子や妻の源倫子も解説!
・988年(23歳)
長女・彰子(しょうし)が生まれます。
・990年(25歳)
父・兼家が死去し、道長の兄の藤原道隆(みちたか)が関白・摂政になります。
道隆は娘・定子(ていし)を一条天皇の皇后にします。
・995年(30歳)
都で伝染病がはやり、兄の道隆・道兼が病に倒れて亡くなります。
その後、道長は道隆の長男・伊周と後継者争いを繰り広げるが、
姉である詮子の後押しで「内覧」になります。
(内覧:天皇にさし上げる文書を、先に見る職業のこと)
・1000年(35歳)
長女・彰子(しょうし)を一条天皇の中宮にします。
・1008年(43歳)
彰子が敦成親王(あつひらしんのう)を生みます。
・1012年(47歳)
次女・妍子(けんし)を三条天皇の皇后にします。
・1016年(51歳)
敦成親王が後一条天皇になり、道長は摂政になります。
この時点で、道長は天皇のお爺ちゃんになった事になります。
・1017年(52歳)
摂政を長男の藤原頼通(よりみち)に譲り、太政大臣になります。
・1018年(53歳)
三女・威子(いし)を後一条天皇の中宮にします。
・1021年(56歳)
6女・嬉子(きし)を皇太子である敦良親王(のちの後朱雀天皇)に嫁がせます。
・1027年(62歳)
亡くなります。がんまたは糖尿病が原因だと言われています。
藤原道長について。何がそんなにすごかったの?
年表をざっと見て、いかがでしたか?
「娘を天皇に嫁がせただけじゃん!」って突っ込みましたか?笑
その通りです。道長は4人の娘を天皇に嫁がせています。
そもそも、娘を天皇に嫁がせることに何のメリットがあるのでしょうか。
こちらの系図を見てください。
※参照:風薫る京都
一条天皇に嫁いだ彰子は、のちに天皇となる男の子をふたり産んでいます。男の子から見ると、道長は「お母さん側のおじいさま」に当たります。
彰子が産んだ敦成親王は、わずか8歳で後一条天皇となります。その前の天皇だった三条天皇に対し、「眼の病気」を理由に天皇の位を譲るよう、道長が迫ったのです。
ちなみに三条天皇には次女・妍子(けんし)を嫁がせていますが、残念ながら未来の天皇になる男子は生まれませんでした。
さて、8歳の子どもに政治のことなどわかるわけがありません。そこで登場するのが、幼い天皇に代わって政治を行う役職についていた「摂政(せっしょう)」である道長です。
「天皇のおじいさま」の道長は摂政として、権力をふるうことができたのです。
この後一条天皇には三女・威子(いし)を、後一条天皇の弟でのちに後を継ぐ後朱雀天皇には六女・嬉子(きし)を嫁がせています。
道長自身は摂政となって1年後には、息子の藤原頼通(ふじわらの よりみち)に摂政をゆずり、政治の表舞台から去っているので、子ども・孫の代のためにしっかりと基盤を固めておいたのでしょう。
また、藤原道長と言えば、三女・威子を嫁がせたときのパーティーで詠んだ和歌が有名です。
「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」
「この世は私のためにあるようなものだ。満月のように足りないところは何もないと思えるから」という意味です。
ものすごい自信ですね。
ただ、考えてみれば、「娘を天皇に嫁がせて男の子を生ませる」作戦は、自分の努力だけではどうしようもない「運」がモノを言う作戦です。
まず、道長は6人もの女の子に恵まれた。だからこそ、4人もの娘を天皇に嫁がせることができたわけです。さらに、道長の孫から3人の天皇が出ています。
もとをただせば「道長の奥さんがえらかった」といえるかもしれません。
もっとも、この作戦、道長が考え出したものというわけではありません。道長の父・兼家もこの手法で摂政、さらには関白(天皇が大人になってから補佐する役割)になっています。さらに、道長が生きた時代よりも約100年前、ご先祖に当たる藤原良房(ふじわらの よしふさ)がこの作戦を実行しています。
にもかかわらず、藤原道長の知名度がダントツに高いのはなぜなのでしょうか?
その理由に、娘4人を天皇に嫁がせることができた「ラッキーボーイ」ぶりがあげられるでしょう。
源氏物語や枕草子があるのは藤原道長のおかげ!?
「そこまで用意に用意を重ね、天皇の権威を利用してどんな政治をしたの?」
そんな疑問が出てくると思います。
私もふと、同じことを思いました。
残念ながら、平安時代の貴族たちは「よい世の中にするため、政治を行う」という感覚など持ち合わせていません。この時代の権力者のお仕事とは、「どの役職にだれをつけるか」を決めることといってもいいでしょう。道長は自分の一族の人間を、高い位につけたのです。
「それのどこがえらいの?」という声が聞こえてきそうですね。
そう。道長が政治家としてやったことといえば、藤原氏の繁栄をもたらしたというだけ。
政治家と呼んでいいのかも疑問です。
「尊敬する歴史上の偉人」に道長が選ばれることはなさそうですね。
「じゃあ、道長について社会科の授業で取り上げる意味ってあるの?」
このように言われそうですが、じつはあるんです。
有力な貴族が天皇に娘を嫁がせるとき、なるべく天皇に娘のところへ足繁く通ってもらおうと、さまざまな工夫をします。
その一つが「女房」とよばれるお世話係の存在。
一条天皇に娘・彰子を嫁がせるとき、道長は優秀な女房たちを集めました。あの『源氏物語』の作者・紫式部もその一人です。ほかにも恋多き歌人として名高い和泉式部、『栄花物語』の作者・赤染衛門など、華やかなメンバーが揃っていました。
一条天皇にはもうひとり、藤原氏出身の妃がいました。道長の兄・道隆の娘である定子です。この定子のもとにいた女房が『枕草子』の作者・清少納言です。
つまり紫式部と清書納言のふたりは、仕える主人がライバル関係という間柄だったのです。
この2人については以下の記事でわかりやすくご紹介しています。よかったら見てみて下さいね。
※参考:紫式部ってどんな人?年表や源氏物語を小学生向けに解説!
※参考:清少納言ってどんな人?年表や枕草子を小学生向けに簡単に解説
源氏物語や枕草子に代表される、華やかな文化が都で繰り広げられた真ん中に、道長は存在していました。
紫式部は道長をモデルにして、源氏物語の主人公・光源氏を作ったといわれています。
この記事のまとめ
それでは「藤原道長とはどんな人か?」を簡単におさらいしておきましょう。
・その1:
4人の娘を天皇に嫁がせた。
そこから3人の天皇となる男の子が生まれ、道長は母方の祖父として権力を握った。
・その2:
娘たちに優秀な女性をつけ、和歌や物語などの文化が花開く役割を果たした。
道長、および彼の先祖たちが取ってきた手法は、ある意味、運頼み的な要素が大きかったですね。こうしたやり方は道長の息子、頼通の時代になるとうまく行かなくなってきます。そして、やがて「藤原氏の血を引かない天皇」が登場し、権力を奪っていくことになるのです。
藤原道長の後の藤原氏がどうなったのか。
このテーマについては以下の記事でご紹介しています。興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:藤原道長の子孫は現代にもいる?藤原氏はその後どうなった?
すごいね
すごくわかりやすく、とても参考になりました。 ありがとうございます
自主学習で使わせていただきました。
とてもわかりやすいかったです。
ありがとうございます!
すごくわかりやすい自主学習で一番だったありがとうございますm(_ _)m
私もたまには、陸上以外にも簡単に歴史を知っておこうと思いこのサイトを開きましたが、「小学生向け」ということで読んでみたら、ちゃんとわかりやすいように、「大事なところに色を付ける」ことがとてもGOODです。
文字も丁寧で、とてもわかりやすかったです。参考にさせてもらいます。
平安時代は 苦手の時代でしたので 良く理解出来ました 感謝します