豊臣秀頼と言えば、大坂の陣で率先して動かなかった事などから、一般的にその評価は低めであるという印象を受けます。

しかし、実際の彼の評価はどのようなものだったのでしょうか。


また、豊臣秀頼の墓所はについてもご紹介します。
鹿児島にも秀頼の墓があると言われている理由も気になるところですが・・・

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豊臣秀頼の評価は凡庸か? 再評価の余地はある?


まずは豊臣秀頼の評価について検証していきます。

豊臣秀頼の評価として、一般的にはよく、凡庸という一言で表されています。


この理由としては、大阪の陣での豊臣方の動きにあるようです。

大坂の陣では、冬の陣と夏の陣の間に一度、徳川方と豊臣方の間に和議が持たれていますが、その和議を率先して行ったのが秀頼ではなく、母の淀殿であったというのです。
また、夏の陣での兵の士気向上のための前線への出馬も無かったと伝えられています。

以上のことから、凡庸で母の淀殿力が強かったという低い評価がなされているようです。

※参照:淀殿の大坂の陣における行動やその最後。生存説が2つも!?


では、実際の秀頼は凡庸なだけの人物だったのでしょうか。


これについては、近年の研究で全く別の視点が出てきています。残っている秀頼の書状や和歌などを参考に、秀頼が多才で武芸にも秀でた人物であったと主張する人も出てきています。

また、1612年に家康と豊臣秀頼が二条城にて会見を行った際、家康は秀頼の才能を見抜いたと言われています。この説には後世作られた話なのですが、仮に秀頼が全くの無能であった場合、こうした逸話が作られる事もなかったでしょう。

他には、夏の陣での前線出馬の件に関しても、秀頼本人の問題ではなく、豊臣方の内部で意見の対立があったためだという説もあります。


豊臣秀頼の評価は改めて見直されているところと言えるでしょう。

豊臣秀頼の墓はどこにあるの?


豊臣秀頼は大阪夏の陣にて、大阪城で自害したとされています。
その秀頼の墓所は複数あるのですが、仲でも特に有名なのは京都にある養源院です。

この養源院は、秀頼の母である淀殿が実家の浅井家の人々のために創建したとされ、秀頼と共に淀殿も眠っている場所として知られています。
また、淀殿の妹であり、秀頼の義母にあたるお江の方がこの二人の菩提を弔ったことから、秀頼と非常に深い縁のある場所でもあります。

この他にも、大阪城三の丸から出た遺骨が埋葬された京都の清涼寺や、和歌山の高野山奥の院も豊臣秀頼の墓所だと言われています。

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秀頼は生きていた? 鹿児島にある秀頼の墓所とは?


大阪城で自害したとされる豊臣秀頼には、生存説があります。

それは、密かに大阪城を抜け出た秀頼が真田幸村と共に薩摩(現在の鹿児島県)へ落ち延びたというものです。実際、鹿児島市の谷山地区には豊臣秀頼の墓と伝えられる塔があり、現在でも整備されています。


では、なぜ秀頼が薩摩に渡ったという伝承があるのでしょうか。

大きな理由として挙げられるのは、秀頼の遺体が炎に包まれて見つからなかった事でしょう。
この事実が庶民に知られる事で「秀頼は生きているのでは?」という噂が広まっていったのだと思われます。

この噂は、江戸初期に平戸にいたコックスという人物の日記や手紙で確認する事が可能です。
また、当時京で流行ったわらべうたに「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり鹿児島へ」という歌詞のものがあり、生存の噂が広がっていたのです。


そして、墓のある谷山地区では古くから「谷山犬の喰逃げ」という伝承が残っています。
これは、秀頼と思われる大男が城下町で度々食い逃げをして暴れ回っていたという噂を指すのですが、この大男が秀頼のことではないかとも言われています。

秀頼は身長が197cm、体重が161kgあったと言われているのですが、この大きさに圧倒された家康が豊臣家打倒を決意した…という事実も、もしかしたらあったかもしれませんね。

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この記事のまとめ


豊臣秀頼の評価については、現在、研究が進んでいる段階で、今後どうなっていくのか、まだよく分かっていません。しかし、複数の場所に墓所があり、生存説が残っているということは、それほど強大な権威や存在感があったということを示しているのではないかと私は思います。

今後、秀頼の評価に関する研究が待たれる所ですね。


ちなみに、秀頼の妻である千姫は本多忠勝の孫、本多忠刻と再婚しています。70歳まで生き抜いた千姫の人生について以下の記事でまとめているので、興味があればご覧になってみて下さい。

※参照:千姫の夫である本多忠刻とは?徳川家光との関係や墓所も解説