人の情念が最も強まるとされる死の瞬間。
死を悟った人の読む句を辞世の句と呼びます。
中世以降、辞世の句を詠むことは一種の流行となり、文人にとっては欠かせない習慣とされてきました。そして歴史上の有名な人物の多くが、この世を去ることに思いを馳せた辞世の句を残しています。
そこで今回は、辞世の句の中で特に有名な作品を、その意味と共に5つ厳選してご紹介します。
目次
伊勢物語の主人公とされる在原業平の辞世の句
「ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」
作者は、伊勢物語の主人公とされ、六歌仙の一人でもある在原業平です。平安時代における美男の象徴のような人物であり、数知れぬ女性たちと関係を結んできたと言われる業平ですが、辞世の句はそのプレイボーイともいえる人物像からは想像もつかないほど寂しさと趣に満ちています。
詳しくその意味を見ていきましょう。
「誰もが通る死出の道だとは聞いていたけれど、
それが昨日今日というすぐに起きることだとは思わなかった。」
この辞世の句は、死の間際、多くの人が思うであろうことを率直に表現した句として高く評価されています。和歌の名手らしからぬ、掛詞等の技巧を用いないストレートな表現からは、華々しい女性遍歴のみならず政治的にも要職にあった業平の、自らの死に対する驚きのような感情が読み取れます。
一方で、死に際しての悲しみや悔しさなどは直接的には句に込められていません。
どこかあっさりとしたような印象さえ受けるこの句には、死を受け入れる業平の思いが込められているかのようです。
※参照:在原業平に妻はいた?藤原高子や小野小町との関係について!
源平合戦のヒーロー、源義経と弁慶の辞世の句
「のちの世も またのちの世も めぐりあはむ そむ紫の 雲の上まで」
作者は、源平合戦で最も有名な人物と言っても過言ではない源義経です。平治の乱で父が戦死し、鞍馬寺で育った義経は、兄である頼朝の挙兵に呼応します。一の谷の戦いや屋島の戦いで大胆な作戦を成功させ、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした義経ですが、その後は兄・頼朝の反感を買い、最後は平泉で非業の死を遂げます。
現代においても度々、書籍化や映像化がなされるなど人気の義経。
そんな彼が残した、辞世の句の意味はこちらです。
「後の世も、そのまた後の世も、めぐり合おう。
その紫色に染まった浄土の雲の上まで共に行こう。」
この辞世の句は、弁慶が詠んだ句への返歌として歌われました。
その弁慶の辞世の句とその意味はこちらです。
「六道の道のちまたに待てよ君遅れ先立つ習ひありとも」
(意味:冥土への道の途中で待っていてください。たとえ死ぬ順番に前後はあっても)
六道とは、浄土宗の中で私たちが輪廻すると教えられている六つの世界のことです。
転じて、冥土、あの世を指します。
絶望的な状況の中でさえ、主君である義経の未来のことを考え、自分を待っていてほしいと願う弁慶の思いは忠心そのものです。そして、その弁慶の思いに応える義経の歌も、来世での弁慶との出会いを信じる気持ちを歌っています。
非業の死を遂げた二人の悔しさと、仏教の教えに救いを求める二人の気持ちが詠むものにストレートに伝わってくる辞世の句と言えるでしょう。
※参照:源義経ってどんな人?年表や源頼朝、弁慶との関係について!
辞世の句が2つもある!?徳川家康が歌に込めた想いとは?
「先に行く あとに残るも 同じこと 連れて行けぬを わかれぞと思う」
「嬉しやと 二度さめて一眠り うき世の夢は 暁の空」
作者は、江戸幕府の初代将軍である徳川家康です。織田家や今川家の人質という厳しい状況から独立し、武田家や北条家といった周辺の大名と戦いながら実力を付け、秀吉の死後関ヶ原の戦いに勝って江戸幕府を開き、260年以上続いた徳川の世を創設した人物です。その75年間の人生には色々と思う事があったのか、辞世の句もなんと2つ残されています。
以下では、それぞれの句の意味を見ていきましょう。
「自分は先にこの世を去るが、お前達も後々死ぬ事になる。
だが私はお前達と共に亡くなろうとは思わない。ここが別れだと思ってくれ。」
「これが最後だと思って眠ったが、嬉しい事にまた目覚める事が出来た。
現世で見る夢は、夜明けの時期の暁の空のようなものだなあ。」
1つ目の辞世の句は、今まで世話になった家臣への別れを詠んでいる風に見えますよね。しかしこの句、実は家臣の殉死を戒める意味が込められているのです。
江戸時代の初期、主君が亡くなった場合に家臣が殉死をするのは良い事だとされていました。しかし家康としては、まだ盤石ではない幕府の為に働いてもらう為にも、殉死などされては困ると思っていたのかもしれません。
そして2つ目の辞世の句ですが、この世を生きている喜びが伝わってくるような作品ですね。実はこの句、以下の豊臣秀吉の辞世の句に対する返歌だとも言われています。
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
「露のように落ち、露のように消えたわが身よ。
大阪での日々は夢のようなものだった。」
この秀吉の句は、彼の権力者としての姿とは異なる、人生に対する切なさや虚しさが感じられる作品です。同じ天下人であったとしても、我が子秀頼に対する心残りがあった秀吉と、徳川の世を盤石なものにしてこの世を去る家康の心境は正反対なものだった…と言っても過言ではないのかなという気がします。
自らの晴れ晴れとした気持ちを詠んだ大石内蔵助の辞世の句
「あらたのし 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」
『忠臣蔵』の名で親しまれている赤穂浪士の討ち入り事件。
そのリーダーが大石内蔵助です。
主君である浅野長矩が幕府の要人である吉良上野介を切り付け、そのまま長矩は切腹となり、浅野家は断絶とされてしまいます。復讐を叫ぶ浅野家の家臣たちをなだめ、ぎりぎりまで御家再興を図った内蔵助でしたが、再興が不可能となると、吉良家への討ち入りを画策。47人の浪士と共に、討ち入りを成功させた内蔵助は、世間の同情を集めつつも切腹を命じられます。
その時の辞世の句の意味を見てみましょう。
「思いを晴らして死ぬことは、なんと楽しいことか。
今宵の月に雲がかかっていないように、私の心も澄み切っている。」
主君、浅野長矩の恨みを晴らした思いが句に表現されています。内蔵助にとって、急進派をなだめながら復讐の機会を待ち続けた一年間は非常に長く苦しいものだったでしょう。雲のかかっていない月になぞらえて自らの晴れ晴れとした気持ちが表されています。
先に紹介した2つの辞世の句は、死に際しての虚しさを詠んだものですが、この内蔵助の句はそれらと対照的な作品と言えます。内蔵助を含めた47人の赤穂浪士は切腹という処分を下されますが、彼らの行いは世間で称賛されます。
結果的に、浅野家は再興を許され、内蔵助は本懐を遂げました。
※参照:忠臣蔵のあらすじや登場人物を簡単に解説。人気の理由とは?
下の句を合わせた意味は?高杉晋作の辞世の句
「おもしろき こともなき世を おもしろく」作者は、長州藩の藩士である高杉晋作です。吉田松陰の松下村塾に学び、「松下村塾四天王」の一人に数えられ、後に尊王攘夷運動に傾倒。下関戦争を引き起こす一方で、身分に依拠しない画期的な軍隊「奇兵隊」を立ち上げます。幕府による2回目の長州征伐の際には、奇兵隊を率いて幕府を撃退し、大政奉還へとつながる流れを作り出しましたが、29歳で新政府の樹立を見ることなく亡くなりました。
そんな幕末の風雲児が詠んだ辞世の句です。
「おもしろいこともないこの世の中をおもしろく」
非常にシンプルでありながら、幕末の日本を変えようと奔走した高杉の強い思いが伺える句です。しかし実は、この辞世の句には続きがあると言われています。
「すみなすものは 心なりけり」
(意味:自分の心持ち次第)
ただ、この2つは高杉本人ではなく、看病にあたっていた野村望東尼が詠んだとされている作品です。高杉自らが詠んだ上の句は、非常に有名で座右の銘にされている方も多いと思われますが、下の句と合わせるとより一層、高杉の人物像が見えてくるのではないでしょうか。自分が死ぬことへの感慨というよりは、自分の生き様を詠んだ句は、力強さを感じさせます。
若くして亡くなったとは思えない、自分の人生に対する自信のようなものをのぞかせる句です。
※参照:高杉晋作ってどんな人?年表や奇兵隊を小学生向けに解説!
今回のまとめ
今回は、数ある辞世の句の中で特に有名な作品をその意味と共に5つご紹介しました。
辞世の句は季節や色恋について詠まれた句とは違い、非常に重たい印象を受けるものも多いですが、読み手の人生観が色濃く繁栄されており、心に響く作品が多いのも事実です。
ここで紹介されていない辞世の句も数多くあります。人生で迷った時やつらい思いをした時、偉人の辞世の句とその思いに触れてみてはいかがでしょうか。