空海(くうかい)と言えば、日本の歴史でもっとも有名なお坊さんの1人。
「弘法大師」(こうぼうだいし)の名で、今も多くの人々の信仰を集めています。
そんな空海ですが、一体どんな人だったのでしょうか。
このページでは空海の年表や、同じ時期に活躍したお坊さんである最澄との関係を、小学生の方にもわかるように簡単にまとめてみました!
空海ってどんな人?小学生にもわかるように解説!
まずは空海がどんな人だったのかを、小学生の方向けにご紹介します。
空海(774~835)は、平安時代の初めに活躍したお坊さんです。「密教」という新しい仏教を学ぶために、唐(現在の中国)に渡りました。この「密教」とは大日如来(だいにちにょらい)を敬う教えのこと。秘密のまじないを使って大日如来の世界と接することで、心身ともに仏とひとつになり、願いごともかなうというものです。
帰国後、空海は唐で学んだことをもとに「真言宗」(しんごんしゅう)という宗派を開きました。また、この真言宗を学ぶための場所として、和歌山県にある高野山に、金剛峯寺(こんごうぶじ)というお寺を建てています。
さらに、平安京に庶民のための学校「綜芸種智院」(しゅげいしゅちいん)を建てたり、洪水のために堤防が崩れた讃岐国(現在の香川県)の「満濃池」(まんのういけ)を修理するなど、さまざまな活動を行いました。そして、空海は習字もとても上手でした。平安時代のトップ3に入るほどの腕前だったと言われています。
835年に亡くなった空海は、当時の醍醐天皇より「弘法大師」という名前をプレゼントされています。ことわざに「弘法も筆の誤り」というものがありますが、これは「習字がとても上手な弘法大師=空海でも、字を書きまちがえることがある」という意味です。
空海の年表を小学生にもわかるようにまとめてみた。
ここでは、空海の年表を小学生の方向けにご紹介します。
・774年(0歳)
讃岐国(現在の香川県)で地方豪族の子として生まれる。
・792年(18歳)
長岡京(ながおかきょう)に来て、大学寮で学ぶ。
学問だけでは飽きたらず、山で仏門修行をしたといわれる。
出家して僧になった時期は不明。20歳、25歳などの説がある。
・804年(30歳)
唐の国(現在の中国)に渡り、密教を学ぶ。
留学僧のなかには、最澄(さいちょう)もいた。
・806年(32歳)
日本に帰国する。
・816年(42歳)
朝廷より高野山を与えられ、修行道場として寺を建てる。
・821年(47歳)
讃岐国にあった満濃池(まんのういけ)の修理にあたる。
・823年(49歳)
朝廷より平安京の東寺(とうじ)を与えられ、真言宗を学ぶ場所にする。
・824年(50歳)
朝廷からの命令で雨乞いの儀式をする。
・828年(54歳)
庶民の学校として綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開く。
・835年(60歳)
高野山で亡くなる。
・921年(死後)
醍醐天皇から「弘法大師」の名を贈られる。
学校を作ったり、池の工事を行ったり、習字がとても上手だったりと、空海はただのお坊さんではありませんでした。しかし空海の1番の功績といえば、同じ時代に活躍した最澄(さいちょう)というお坊さんと共に、平安時代のはじめの仏教の広がりに貢献した事があげられます。
では、同じ時代に活躍した空海と最澄は、一体どのような関係にあったのでしょうか。
空海と最澄の関係とは? 2人は全く違うタイプだった?
平安時代のはじめに、空海と並んで新しい仏教である「天台宗」(てんだいしゅう)を開いたのが最澄です。空海より8歳ほど年上にあたる人物で、立場もはじめは最澄の方が上でした。この2人は804年、遣唐使として唐の国へと渡っているのですが、この時点で最澄は国から認められていたエリートだったのに対し、空海はその他大勢のお坊さんに過ぎない存在でした。
しかし唐に渡って、空海はその才能を発揮します。2年間、唐の国にいる間、当時はやっていた「密教」をマスターしてしまったのです。一方の最澄も密教に興味があったそうですが、エリートだったため1年間しか滞在が許されておらず、密教を学ぶことが出来ませんでした。
当時の日本では、まさに密教ブームがおこっていました。そのため密教をマスターしている空海はとても貴重な存在で、たちまち最澄と同じくらい地位にのぼりつめます。これを見た最澄も、密教を学びたいと考え、8歳年下の空海の弟子になる事に。
その後2人の交流は10年ほど続くのですが、やがて仲は悪くなっていきました。最澄は勉強が好きな優等生タイプだったのに対し、学校を作ったり習字がうまかったり池の工事もできる空海は行動派。一説には、本を貸してほしいとばかり言ってくる最澄に対し、「人と人とが直接顔を会わせ、伝えることが密教について学ぶうえでは大切なのに、最澄は本さえ読めば学べると思っているのだろうか」と空海が感じ、本の貸し出しを断ってしまったことや、最澄の弟子が空海のもとに行ってしまったことが原因で疎遠になったといわれています。
この書き方だと、最澄のイメージが悪くなりそうなので1つ補足を。平安時代がおわり鎌倉時代になると、浄土宗や臨済宗や日蓮宗といった新しい仏教の教えがいろいろ出て来るのですが、これらは全て最澄がひらいた天台宗が元になっているのです。一方の空海は色々なことができる天才タイプだったので、誰にも真似ができない存在だったのかもしれません。
この記事のまとめ
空海がどんな人だったのかを、年表や最澄との関係にも触れながらご紹介しました。
真言宗という新しい仏教の宗派をつくっただけではなく、学校を作ったり、字がとても上手だったり、池を修理したり雨乞いをしたり…。まさにスーパーマンのような働きぶりですね。
そのため、空海についての様々な言い伝えが今でも伝わっています。
「空海が杖を指したところに水が湧いた」というエピソードから、空海は日本各地の色々な温泉を見つけたという逸話も残されています。
あなたの住む街の近くにも、空海ゆかりのお湯があるかもしれませんよ?