藤原道長が栄華を極めた平安時代中期の貴族社会では宮廷文化が花開き、宮廷には妃に仕えるすぐれた女房たちが集まっていました。
その中には、源氏物語の作者である紫式部や栄花物語の作者である赤染衛門がいました。
彼女たちの作品は道長に関係があった面でも知られています。
また、道長自身も御堂関白記という現在でも名を残す資料の作者でもあります。
この記事では「藤原道長と文学作品」というテーマで、道長と源氏物語、栄花物語、御堂関白記の関係についてご紹介します。
藤原道長と「源氏物語」の関係は?
源氏物語の作者である紫式部は、藤原道長の娘・彰子の女房でした。
彼女が源氏物語を執筆した動機にはさまざまな説がありますが、「藤原道長が娘・彰子の教育のために書かせた」という説をご紹介します。物語にはさまざまな女性が登場し、心の機微が描かれます。それとともに、女性たちは光源氏と和歌のやり取りや音楽、絵画を楽しみます。
天皇の妃としての心得やたしなみ、貴族社会の様子を学ぶテキストとして、「源氏物語」は書かれたというのです。
当時、物語を書くための紙はとても貴重で、道長からの紙の支給がなければ400字詰め原稿用紙にして2400枚にも及ぶ長編小説など、書き切ることはできなかったはずです。
「道長が式部の部屋から執筆途中の物語の断片を持ち出して、彰子の妹の妍子に渡した」という記述が「紫式部日記」にあります。妍子も当時の皇太子へ嫁ぐことになるので、お妃教育のテキストに使われたのではないか、と考えられています。また、「紫式部日記」には「道長が誘ってきたがうまくはぐらかした」といった記述が出てきます。式部は聡明ですね(笑)
光源氏のモデルについては、嵯峨天皇の第12皇子である源融のほか、複数の人物が挙げられていて、藤原道長もそのひとりに数えられています。
頼るべき後ろ盾のない皇子、位人臣を極めた臣下、数々の浮名を流す貴公子…。いろんな側面を持ち合わせた光源氏の政治家としての部分は、道長を投影したものかもしれませんね。
※参照:紫式部の父親の藤原為時とは。夫や子供の大弐三位も解説!
「栄花物語」における藤原道長の記載とは?
「栄花物語」は宇多天皇(887年~897年在位)から堀河天皇の時代の1092年まで、15代約200年の宮廷貴族社会を扱ったによる歴史物語です。なにがきっかけで書かれたのかは、よくわかっていませんが、かな文字で書かれているので(男性が文章を書くときは漢文を使いました。公の文書も漢文です)、女性が女性に読ませるために書かれたと思われます。
全40巻で構成されていますが、前半の正編30巻と後半の続編10巻で内容が大きく異なります。
正編は藤原道長が娘たちを次々と天皇に嫁がせ、政争に打ち勝って栄華を極め、亡くなるまでを描いています。対する続編は道長のような物語の軸になる人物がなく、宮廷行事の詳細な様子などを描いたものとなっていて、正編と続編は著者も完成時期も異なると考えられています。
道長の栄華について書かれた正編は、道長の妻・倫子や娘・彰子の女房だった赤染衛門が作者とする説が有力です。完成は道長の死後(1028年)からまもない1035年ごろとされています。
続編は道長の二人の娘でいずれも天皇に嫁いだ彰子・威子、威子の娘・章子内親王の女房だった出羽弁との説がありますが、確証はありません。
こちらは1107年ごろの完成といわれています。
「栄花物語」の正編30巻では、道長が娘を“武器”に宮廷で権力を握ったのち、子供たちに先立たれたり出家されたりして悲哀も味わって人間的に成長していく様子が描かれています。
一方で、道長との権力闘争に敗れた者、道長の娘が天皇に嫁いだばかりに“天皇の寵愛をかけた女の争い”の犠牲になった女性たちの姿についても克明につづっています。道長が政争に勝利し、敗れた者の妻や娘を自分の家に女房として引き取っている描写がありますが、この娘たちも天皇に嫁ぐために育てられたのにと思うと、哀れに思えてきます。
客観性に乏しいと批判されることも多い作品ですが、歴史が動く中で人々が何を感じたのかに重心をおいて書かれていて、道長の栄光だけでなく、その影の部分=敗者の行く末も描き出すことで読む人に深い感銘を与えているのだと思います。
また、この「栄花物語」は、当時すでに完成していた「源氏物語」の影響も受けたようで、「源氏」をまねたような文章も出てきます。
道長の日記「御堂関白記」の内容とは?
道長の日記がなんと今も残っています。
道長は995年から日記をつけたらしく、何度か途中でやめてしまっていますが、1004年からは継続して書いているようです。今、998年から1021年(33歳から55歳)までの日記が現存し、「御堂関白記」と呼ばれています。道長の直筆の部分と、後世の人による写本の部分があります。直筆・写本ともに国宝です!
2013年にユネスコ記憶遺産に登録されたことでも話題になりました。
京都の陽明文庫(道長の子孫である近衛家に伝わった文書を管理している)で道長の直筆を観た人の感想は「道長ってさほど字がうまくなかったんだね…」とのこと。
そのうえ誤字も多く、どうも漢文が苦手だったようですね。これが原因で、内容は難しくなないのに、一般の人が原典のまま読んで理解するのが難しいと言われています。
道長って、勉強がそんなに得意ではないボンボンの五男坊といった感じですね。
※参照:藤原道長の母親はどんな人?姉の詮子や妻の源倫子も解説!
内容は、孫の後一条天皇が9歳で即位し、摂政となったときの儀式や、三女・威子が後一条天皇に嫁いだときの様子が詳しく書かれています。身辺のことを書いた日記というよりも、宮中での「まつりごと」(=政治)的なことの記録といった色合いが強いですね。
ちなみに、日記に「三女・威子が嫁いだときの儀式で歌を詠んだ」という記述はありますが、どんな歌を詠んだかは書いていません。この歌が有名な「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」に当たると思われます。
実は、この歌は藤原実資という貴族が書いた「小右記」に載っています。
「小右記」がなければ、道長の「望月の歌」は後世に知られなかったかもしれませんね。
※参照:藤原道長の子孫は現代にもいる?藤原氏はその後どうなった?
この記事のまとめ
藤原道長と関連のある3つの文学作品をおさらいしておきましょう。
1.「源氏物語」
光源氏の華麗な恋愛遍歴と政治生活を綴った長編。
紫式部は道長の娘に使える女房で、道長がスポンサー的存在だった可能性が高い。
2.「栄花物語」
道長の妻に使えていた赤染衛門が書いたと思われる歴史物語。
道長・頼通親子の話がメイン。
道長の摂関政治の犠牲になった人々の悲哀も描いている。
3.「御堂関白記」
藤原道長の日記。内容は宮中での出来事が中心。
直筆の部分も現在に残っていて、道長の人柄がしのばれる。
どれも現代語訳が出ているので、図書館や書店などで調べて、読んでみてはいかがでしょうか。
藤原道長や平安時代の人々が、身近に感じられるかもしれませんよ。