伊達政宗は徳川幕府側として大坂の陣に参戦し、道明寺の戦いなどで功績をあげました。
しかし、中には真田幸村との交戦を拒み、神保相茂への味方討ちを行うなど伊達政宗が名将と呼ばれるのに疑問符がつくような行動もしています。
この記事では、大坂の陣における伊達政宗の動きを軸に、その後の宇和島藩の成立や、伊達家と真田幸村の子供について説明していきます。
伊達政宗と大坂の陣。後藤又兵衛を討ち取るも…
慶長19年(1614年)の大坂の役(冬の陣)で、伊達政宗は大和口方面軍として参戦しました。徳川と豊臣の間で和睦が成立すると、伊達軍は外堀埋め立て工事を担当しています。
次の年の大坂の役(夏の陣)では、城外で戦が始まりました。
5月6日の道明寺の戦いでは、伊達家の家臣である片倉重長が後藤又兵衛を攻撃し、約8時間の戦闘の末、後藤軍を壊滅させましたが、真田幸村の反撃を受け、伊達軍は後退してしまいます。
その後は後述する水野勝成から再び出陣の要請を受けますが、自軍の武器や兵の負傷を口実に拒んでいます。
その結果、真田幸村は大阪城へ楽々と引き返し、
「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」
(徳川軍100万の中には、男と呼べる者は一人もいないなあ)
と徳川軍をあざ笑ったと言われています。
伊達政宗は後藤又兵衛の軍を壊滅させましたが、真田幸村との本格的な対決を避けています。
幸村の部隊と全面的に戦うのを恐れていたのではないかと勘繰ってしまいます。
伊達政宗の神保相茂に対する「伊達の味方討ち」とは?
伊達政宗に出陣要請をして断られている水野勝成ですが、一説によると政宗から散々な目にあっているようです。
なんと、自軍の神保相茂ら300名が、政宗によって「味方討ち」されたという説があるのです。
一体どういう事なのでしょうか。
この神保相茂という武将は、豊臣方の明石全登の攻撃を受けて討死したと言われているのですが、一説によるとその死は明石全登によるものではなく、政宗からの鉄砲によって攻撃されたためだと言われています。政宗が神保相茂を「味方討ち」した理由ですが、以下の説が当時から流れていたそうです。
・敵軍が迫ってきたので、攻撃しないと自分たちを守るため
・神保隊の混乱に自分がまきこまれないようにするため
・水野勝成軍の手柄に嫉妬したため
・家康の命令を水野勝成が無視したことに腹を立てたため
※参照:明石全登の読み方や関ヶ原での活躍について。黒田如水との関係は?
この「味方討ち」によって政宗は笑いものになり、卑劣者と噂がたったそうです。
ただ、この事件によって政宗が何らかの処罰を受けた訳ではなく、この味方討ちが本当だったのかは分かりません。
一方で、水野勝成も政宗の軍を待ち伏せして馬を奪い返したという説も残っています。
元から何かしらの理由で仲が悪かったのかもしれませんね。
こうした色々な説を見てみると、伊達政宗って変わり者だなあとつい思ってしまいます(笑)
※参照:伊達政宗の凄さって何だったの?過大評価の真相に迫る!
大坂の陣の後の伊達家はどうなった?
神保相茂に対する「味方討ち」の噂が立ち上ったものの、政宗は処罰を受けるどころか論功行賞を認められています。大坂の陣の後、長男(庶長子)の伊達秀宗に対して伊予宇和島10万石が与えられており、幕末に影響力を残した宇和島藩が成立します。
秀宗は、一時期豊臣秀吉の猶子となっていたため、豊臣氏に近い存在でした。しかし、父の政宗が徳川家に取り計らい、大坂の陣で徳川側として出陣したことで、功績が認められました。
宇和島藩の伊達家は新しい大名として取り立てられ、2代目将軍秀忠から「西国の伊達、東国の伊達と相並ぶ」ように命じられています。
その一方で、この宇和島藩の成立は、当時の有力大名である伊達家を分断する事で力を弱めることを目的としていた幕府の策略であったのではと個人的には感じます。
また、伊達政宗の配下として戦った片倉重長は、真田幸村の次男である守信と娘の阿梅らを引き取った事で知られています。当時の幕府は豊臣側の残党を厳しく取り締まっていたので、この重長の行動は非常に危険だったと思われますが、身分を偽りやり過ごしています。真田幸村に対する片倉重長の敬意が、子供を匿うという行動につながったのではないかと思います。
この記事のまとめ
伊達政宗は、大坂の陣で後藤又兵衛の前隊を壊滅させましたが、真田幸村と戦うことを強く避け、神保相茂を味方討ちするなど、疑問に残る行動を取っています。そんな政宗ですがお咎めを受けることは無く、長男の秀宗が新しく藩を設立できたり、あるいは真田幸村の子供を匿うなど思うがままに動いていたと感じます。
個人的に大坂の陣は伊達政宗の奇抜さが大きく出ている出来事であると感じました。
なお、以下の記事では伊達政宗が匿った真田幸村の子供たちについて解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:真田大八(片倉守信)とは。姉の阿梅や仙台真田家について!
片倉景綱・重長親子の片倉家は信州の修験者の出で、出羽三山(羽黒・湯殿・月山)が伊達領にあった為に土着した一族です。また当時の修験者は、隠密活動や忍者として活動しており、片倉氏も代々、伊達家の情報班として活躍してきました。そして、片倉氏は信州の真田氏や真田氏のお抱えの忍者集団とも交流が有ったと思われます。次に政宗や景綱の恩師である虎哉宗乙は、武田信玄の外交層の快川紹喜の弟子です。快川紹喜は主に武田氏と美濃の斉藤氏の外交をやっていました。信玄の死後、政宗の父親輝宗に呼ばれ、政宗とその側近の教育係となりました。彼もまた武田家中で真田兄弟(信繁の親の世代)と交流が有ったと思われます。政宗が、大坂冬の陣で、真田丸を包囲したにも関わらず何もしなかったのは、政宗からすればどうでもいい戦だったからです。この当時、家康が大御所でしたが、まだ自分に天下が回ってくるチャンスがあると思ったからでしょう。そこで家康は、政宗の長男に宇和島10万石を与える事にします。冬の陣に何もしてないので、次の戦で、ちゃんと活躍しろよという手形を与えるわけです。政宗もしかたなく、縁もゆかりもない後藤又兵衛を鉄砲で撃ち取ります。政宗からすれば10万石分の手柄分働の事はやりました。次に真田隊がやってきます。そこで、片倉隊を真田隊とぶつけます。実は政宗本隊と真田隊は戦っていません。伊達家というのは奥州の小大名や国人の連合大名で、その本家が政宗です。分家に従弟の成実や叔父連中に政景、昭光や亘理親子なども実は伊達家の分家です。もっと言うとサンドウィッチマンの伊達みきおさんの家の大枝伊達氏も分家の国人領主です。それらと政宗の旗本は使わず、政宗の家臣団(片倉・屋代・茂庭)の内から片倉隊を出しただけです。もちろんこれは、片倉一族と真田一族が同じ信州の出なので、鉢合わせすれば大きな戦にならないという政宗の考え方です。真田と殲滅しようとすれば、まず精鋭の屋代隊(鉄砲率が戦国一と言われております。様々な書籍でご覧ください)や分家で奥州一の機動力を持つ伊達成実隊、あと政宗が当時お抱えの政宗の旗本にいた雑賀孫一が、真田隊を殲滅してたでしょう。もちろん、甥の松平忠輝やリアル花の慶次である水野勝成も参戦したでしょう。信繁が息子や娘を片倉重長に預けたのも関係の無い一族よりは、預けやすい片倉一族や家康に完全に屈していない政宗に託したのは当然だと思います。それと水野勝成は徳川家譜代でありながら、一度出奔して、命がけで槍働きしないといけない立場でしたので、家康的にも政宗に預けておけば、無駄死にはしないと踏んでたと思います。当時の政宗は、力押しではなく、鉄砲率を高めて、狙撃する戦の仕方でした。政宗の近くに勝成を預けておけば無駄死にさせなくて済むと思ったのでしょう。家康も政宗も包囲させておけば勝てる戦です。殲滅させれば、窮鼠猫を噛むじゃないですが、現実に真田隊が徳川本陣に突入するような事になります。政宗はそれをわかっていて、ピンポイントの大将(後藤又兵衛・渡辺糺、薄田兼相など)を狙撃するやり方してます。徳川の戦で自分を減らすのは意味の無い事ですし、一応助っ人として10万石貰っている戦をしたのだと思います。
政宗が神保相茂を「味方討ち」した理由
・敵軍が迫ってきたので、攻撃しないと自分たちを守るため
・神保隊の混乱に自分がまきこまれないようにするため
相手に背中を向けて(伊達勢に)退却すれば、豊臣方に寝返ったと思われて狙撃されることは当然です。もし、これが本当なら神保隊は情けないということになります。そもそも大名返り咲きたいという手柄を求めての出陣でしょうからこのようなことは無いと思います。
・水野勝成軍の手柄に嫉妬したため
水野勝成は、伊達政宗の預かった大名です。ですので、勝成の手柄は政宗の手柄になるので、これも無いと思います。普通に考えて片倉隊の方が手柄を立てているわけですから論外ですね。
・家康の命令を水野勝成が無視したことに腹を立てたため
家康の命令を無視するのは政宗の方が多いわけですから、そんな事言ったら、娘婿の松平忠輝は伊達隊にハチの巣にされています。もちろん冗談ですが、預かりの大名を大切に使うのは道明寺口を任された大名の長としては当然の責務でしょうから、そもそも神保隊を撃つような事もなかったのでは?
そこで、疑問になるのは神保隊を撃つなら歴戦の勇者政宗ではなく、忠輝じゃないかと、それぞれの(・の部分)は政宗の動機というよりも忠輝の動機と思えるのは私だけでしょうか?もちろん、忠輝の責任(勝成の責任も)はそこの隊長の政宗の責任にもなります。なので、私的には、同士討ちをしたのは忠輝じゃないかと思います。そう考えると、その後の政宗、勝成、忠輝の将軍家の処遇について納得いくと思います。