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室町幕府の凋落に代表される社会の動きのなかで起こった戦国乱世、日本各地で戦いが繰り返されました。この戦国時代の最後の戦いとなったのが、このページで紹介する大坂夏の陣です。

今回は、戦国乱世に終止符を打った大坂夏の陣について簡単に解説すると共に、参陣した武将や豊臣方が勝利する可能性はあったのかも検証してみました。

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大坂夏の陣とはどのような戦いだったのかを簡単に解説!


まずは大坂夏の陣がどのような戦いだったのか、簡単にご紹介します。

この戦いは1615年の5月に行われた出来事で、これによって江戸幕府の支配が盤石になると共に、戦国の世も終わりを告げる事となりました。戦いのきっかけは、大坂城にいる浪人が不穏な動きをしていると聞いた家康が、豊臣家に対して浪人を追い出すか大坂城を出て行くかという要求を、豊臣家が断った事にあると言われています。

大坂夏の陣では、各地で様々な戦いが行われました。
以下で簡単にご紹介します。


・樫井の戦い(かしいのたたかい)
豊臣方が紀伊国(今の和歌山県)の大名、浅野長晟(ながあきら)を攻めようとした戦い。浅野勢によって豊臣方が敗北し、塙団右衛門(ばんだんえもん)が討ち死しました。

・道明寺の戦い(どうみょうじのたたかい)
大和(今の奈良県)から攻めてきた伊達政宗らの徳川軍と、豊臣家の後藤又兵衛、真田幸村らによる戦い。豊臣家は後藤又兵衛が戦死した後、真田幸村の奮戦によって大坂城へ退却しました。

・八尾・若江の戦い(やお・わかえのたたかい)
河内国(今の大阪府中部)から攻めてきた藤堂高虎、井伊直孝らの徳川軍と、豊臣家の長宗我部盛親、木村重成による戦い。豊臣家は藤堂、井伊隊に大きな損害を与えたが、木村重成の戦死や長宗我部隊の壊滅といった結果にも終わりました。

・天王寺・岡山の戦い(てんのうじ・おかやまのたたかい)
徳川方15万、豊臣方5万の兵力が一度にぶつかった戦国時代の中で最も規模が大きかった戦い。真田幸村、毛利勝永、大野治房らの奮戦によって家康および徳川秀忠の本陣は大混乱になるが、最終的には数で勝る徳川方が勝利し、真田幸村は討死しました。


こうした戦いの結果、大坂城から逃げ出す人々が大勢出てきた他、徳川軍に寝返るため、城に火を着けた者も出現しました。徳川勢は場内に乱入し、5月8日、秀頼とその母である淀殿は、側近の大野治長、毛利勝永らと共に自害したと言われています。

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大坂夏の陣に参陣した武将にはどのような人物がいたのか?


大坂夏の陣に参陣した武将は、両軍合計30万人ともいわれています。攻城軍は全国の大名たちで、守城軍は秀頼の近臣と浪人たちです。

ここでは、攻城軍=徳川軍と守城軍=豊臣軍とにわけて、主な武将を紹介します。

徳川勢


・徳川家康
攻城軍の総大将です。大坂夏の陣の時、家康は秀忠へ、征夷大将軍や家督を譲っていました。いわば「ご隠居さん」です。しかし、実際には徳川氏、引いては江戸幕府の最高権力者でした。当時日本に来た外国人たちにとっても家康は日本の最高権力者と感じられたようで、「エンペラー(皇帝)」とまで呼ばれています。

※参照:徳川家康のあだ名「狸親父」について。たぬきの意味って何?


・徳川秀忠
家康の子で、大坂夏の陣の時、征夷大将軍でした。もっとも、秀忠の役割は、徳川氏の年中行事を主催することであり、関東を中心とした徳川氏直轄領の支配でした。豊臣方との交渉を担ったのは家康です。大坂夏の陣では、家康とともに伏見城を出陣し、岡山に本陣を置きます。天王寺・岡山の戦いでは、大坂方の必死の反抗によって本陣へ迫られるほどでしたが、これを退けました。

・伊達政宗
大坂夏の陣の時、仙台62万石の大名でした。政宗は、攻城軍の大名の中では数少ない実戦経験者でした。5月6日の道明寺の戦いでは後藤又兵衛を討ち取っています。伊達軍も甚大な被害を受けたとされますが、これによって大坂方に戦線を縮小させることに成功しており、戦略的には大きな成果です。しかしこの時、味方を背後から銃撃したとの疑惑が持たれており、その真相は今なお謎に包まれています。

※参照:伊達政宗と大坂の陣。神保相茂や真田幸村との縁について解説


・松平忠直
家康の子で、大坂夏の陣の時、越前北ノ庄68万石の大名でした。八尾・若江の戦いでは、命令を待っていて動かなかったため家康の叱責を受けています。翌日の天王寺・岡山の戦いは名誉挽回と、前に陣取る加賀前田勢を追い越して敵陣へ迫ります。そして、真田幸村を討ち取ったのをはじめとして、数多くの首級を挙げています。この数は、参陣した大名のなかでも飛び抜けて多い数です。

・井伊直孝
徳川四天王の1人、井伊直政の跡を継いだ井伊家の当主です。冬の陣では真田丸の攻撃に失敗しており、夏の陣は名誉挽回の戦でした。八尾・若江の戦いによって木村重成を討ち取る手柄をあげた他、豊臣秀頼や淀殿を包囲して自害に追い込む手柄を立てています。戦後は従四位下・侍従の官位と5万石の加増を受けています。

豊臣勢


・豊臣秀頼
豊臣勢の総大将ですが、母親である淀殿の意向に大きく左右されたと言われています。夏の陣では度重なる出馬を求められるも戦場に出る事はありませんでした。追い詰められた際、大坂城に火を放った裏切り者を城から突き落としたという彼の行動が、近年発見されたオランダ人の手記により明らかになっています。

※参照:豊臣秀頼の評価は凡庸か?墓が鹿児島にある理由について!


・大野治長
豊臣家存続のために腐心し、家康との講和にも尽力した豊臣家の重臣です。しかし、その努力は秀頼の正室、千姫を救うのみに留まりました。5月8日に、秀頼らとともに、大坂城で果てました。後世には豊臣家を滅ぼした張本人のようにいわれますが、実際は豊臣家のためなら何でもするという忠臣中の忠臣だったのです。

・長宗我部盛親
土佐を領した長宗我部元親の子で、かつては9万8000石の大名でした。しかし関ヶ原の戦いで西軍に属したため、浪人となりました。冬の陣では戦らしい事はしていなかった盛親ですが、夏の陣では八尾の戦いで藤堂勢を壊滅に追い込む奮戦を見せています。木村重成の戦死を聞き、大坂城へ退却した盛親は、落城直前の5月7日に大坂城を退去しています。しかし戦後、捕縛、斬首されました。

・真田幸村(真田信繁)
真田昌幸の次男で、居城であった上田城では2度にわたって徳川軍に煮え湯を飲ませた武将です。道明寺の戦いでは伊達政宗と互角に戦い、天王寺・岡山の戦いでは茶臼山に陣取り、そこから出撃して一時は家康本陣に肉薄します。しかし、多勢に無勢で力尽き、松平忠直の家臣、西尾宗次に討ち取られてしまいました。

・後藤又兵衛
黒田官兵衛の腹心として活躍した武将ですが、その子長政とはそりが合わず、浪人となります。夏の陣では、平地での野戦を不利として、山岳戦を主張したといわれます。5月6日、大和口の先手として出陣します。真田幸村等が続く予定でしたが、濃霧のために真田等の到着が遅れました。そのため、道明寺で伊達政宗の軍に敗れてしまいます。自らも、鉄砲にあたって死去したとされています。

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大坂夏の陣で豊臣方が勝利する可能性はあったのか?


歴史にIfは禁物とされますが、こうしていれば豊臣方が勝利したという秘策みたいなものはあったのでしょうか。
豊臣家が勝利する可能性があったのを探ってみましょう。

兵力は、西軍7万8000人、東軍20万人…つまり圧倒的に東軍有利です。こうした少ない人数で大軍を破るには、敵の兵力を分散させ、味方の兵力を集中させなければなりません。要するに、戦っている人数が敵より多ければ勝つのです。東軍の兵力を分散させるには、大坂以外での味方が必要です。もともと籠城戦は、味方の援軍を期待して行うものとされています。単独での籠城は、最後の戦いでしかありません。

秀頼たちの期待も、そこにありました。いわゆる豊臣恩顧の大名たちが、秀頼方として兵を挙げてくれたならば、家康も大坂城へ兵力を集中させることはできません。ところが、家康は福島正則など、秀吉に直接仕えた経験を持っている大名たちは江戸に留めます。秀頼の期待に応える大名は、身動きできない状況にありました。家康に先手を打たれていたのです。

唯一の手を封じられた秀頼は、戦い散るほかに道はなかったといえます。

この時、万が一家康が戦死したら東軍は動揺し、これによって豊臣家に味方する大名も出たかもしれません。しかし現実としては真田幸村や大野治長らが家康、秀忠の本陣への突撃を行ったものの、これを討ち取るには至りませんでした。こうした事から、大坂夏の陣で豊臣方が勝利する可能性は、「ほぼ」ゼロに等しかったと言えるでしょう。

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この記事のまとめ


このページでは大坂夏の陣を簡単に解説すると共に、参陣した武将や豊臣方が勝利する可能性についても検証してみました。

この戦いは、大名たちに徳川に従わざるを得ないということを知らしめた戦いでもありました。それが、大名同士の戦いのない世の中を250年に渡って生み出したのです。

なお、以下の記事ではその後、徳川秀忠が将軍として行った事について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:徳川秀忠の将軍としての業績は?やったことを5つ解説!