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日本史に登場するた三つの幕府のうち、鎌倉幕府の鮮烈さ、江戸幕府の堅牢さに比べると、その間にある室町幕府は地味で安定しない印象が否めません。

なぜ室町幕府は不安定な政権だったのでしょうか。
幕府の始まりや、滅亡の原因と共に検証してみました。

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室町幕府の始まりはどのようなものだったのか?


まずは室町幕府の始まりが、どのようなものだったのかを見ていきましょう。

室町幕府の成立は1338年。足利尊氏が征夷大将軍に任じられた事によって成立したと見られています。1333年の鎌倉幕府の滅亡から5年後の事でした。尊氏ははじめ後醍醐天皇を助け、鎌倉幕府を倒すことに尽力しますが、後醍醐天皇による建武の新政が武家勢力を排斥したことから離反、自ら武家政権の樹立をめざします。

鎌倉時代は、初の武家政権とも言われますが、それ以前の政治体制を全否定した革命政権ではなく、多分に旧勢力と並存するバランスの上に成り立っていました。その二元性から、朝廷一元化を目指したのが後醍醐天皇であり、武家一元化を目指したのが足利尊氏と言えます。

しかし、室町幕府の始まりの時期は、将軍家である足利氏そのものが一枚岩ではありませんでした。幕府の発足直後に発生した「観応の擾乱」において、尊氏・直義兄弟による骨肉の争いが幕府方を二分してしまいます。また、後醍醐天皇が開いた南朝の勢力が奈良の吉野を中心として全国に存在しており、政権が安定するには3代将軍、足利義満の時代を待たなければいけない状況でした。

※参照:足利義満が金閣寺を建てた理由やその後の歴史。頂上の鳳凰とは?
 

なぜ室町幕府は不安定な状態が続いたのか?


足利義満の時代に最盛期を迎えた室町幕府でしたが、その統治は不安定な状態が続く傾向にありました。この点について、もう少し詳しく見ていきましょう。

室町幕府が不安定だった理由として、守護大名の力が強かった点が挙げられます。鎌倉時代の守護は、赴任した土地の軍事を司る存在だったのに対して、室町時代の守護は南北朝時代の混乱を通して、その領地の政治までも担う存在へと成長していました。このため、幕府はその領地を守護を通して支配する他なかったのです。

将軍家も無策だった訳ではありません。力を持ちすぎた守護大名を幕府が討伐したり、三管領(細川・斯波・畠山)や四職(赤松・一色・京極・山名)といった制度を創設して、有力大名を相互にけん制させるといった取り組みを行った事もありましたが、結局は有力守護大名の連合政権のような不安定な政権運営を続けるしかありませんでした。

財源の問題も見逃せません。室町幕府の収入は足利家の所領であった「御所所」に依存していたのですが、この直轄地が少なく、また日本各地に点在していた事もあって得られる金額は決して多くはありませんでした。また、将軍家の直轄軍である「奉公衆」の数も多くても1万人前後と、圧倒的な軍事力を持っていなかった事も、室町幕府が不安定だった要因と言えるでしょう。

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室町幕府が滅亡した3つの原因をわかりやすく解説


最後に、室町幕府が滅亡した原因について見てみましょう。

直接の原因は、1573年に織田信長が将軍・足利義昭を京都から追放した事によります。ただし義昭は毛利家が治めていた備後国に移りその庇護を受けながら、京都奪還を狙っていました。義昭は1588年まで将軍として在位していたため、この年を室町幕府の滅亡年とする見方もあります。

間接的な原因としては、1467年から10年間に渡って続いた応仁の乱の影響も見逃せません。この戦争によって足利将軍家は真っ二つに分かれただけでなく、結果として幕府やそれを支えていた守護大名の衰退も、室町幕府が滅亡した大きな原因と言えるでしょう。

また、1493年に勃発した明応の政変も見逃せません。この出来事は、10代将軍であった足利義稙を管領であった細川政元や、前将軍足利義尚の母親であった日野富子がクーデターによって廃嫡し、11代将軍に足利義澄を就任させた出来事です。この足利義稙ー義澄の対立は、細川家の家督争いや細川家と大内家の争い、そして細川家とその家臣であった三好家との争いを巻き込む形で、それぞれの後継者へ受け継がれていく形となります。こうした足利将軍家の内部分裂が、信長が1568年に足利義昭を上洛させる前には見られました。

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この記事のまとめ


室町幕府の始まりや不安定だった理由、そして滅亡の原因についてご紹介しました。

その始まりは吉野の南朝の存在や観応の擾乱の勃発、滅亡の原因として挙げられる応仁の乱や明応の政変でも、将軍家が真っ二つに分かれる状態が続いた室町幕府。こうした失敗を学んだ徳川家康は、幕府の直轄地を増やし、大名統制においても抜かりありませんでした。

内部に多くの矛盾を抱えた室町幕府。しかし、これは単にこの幕府の無能さを示すものではなく、時代の嵐がふきすさぶ中での、あるがままの姿だったのではないかとも考えることが出来ると思います。