貼り付けた画像_2016_06_30_12_13

「敵は本能寺にあり!」という言葉を聞いたことがありませんか?

この言葉は、明智光秀(あけち みつひで)という戦国武将が織田信長を本能寺に攻めに行く時に言ったといわれている、有名な言葉なんですよ。
あの織田信長を倒すなんて、明智光秀とはいったいどんな人だったのでしょうか。


年表を使いながら、信長を倒した本能寺の変についてわかりやすく説明します。

調べ学習などに役立ててみてくださいね!
スポンサードリンク

明智光秀はどんな人だったのかをわかりやすく解説


明智光秀は1528年に現在の岐阜県に生まれました。

はじめの頃は斉藤道三に仕えていましたが、道三が滅ぼされたのちは浪人となり、いろいろな場所を転々とする生活を送ります。光秀はこの時に鉄砲などの最新の技術や、和歌といった教養を身に着けました。光秀は頭がよくて品のある人だったと言えそうですね。


1569年からは織田信長の部下になります。信長34歳、光秀40歳のときでした。
信長は光秀の頭のいいところや、物知りなところを気に入ったようです。

ただし、光秀は信長にとって子どもの頃を一緒に過ごしてきたほどの部下ではなかった(いわゆる「新参者」だった)という点は見逃せませんね。

そんな中、光秀は比叡山延暦寺焼き討ちや長篠の戦いなどの有名な戦に加わるとともに、政治の面でも活躍し、信長の部下の中でもどんどん出世していきます。


しかし、1582年に信長を本能寺で襲い(本能寺の変)ますが、そのわずか十数日後に同じ信長に仕えていた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に山崎の戦いにて敗れ、死亡しました。

スポンサードリンク

明智光秀の年表をわかりやすく解説


続いて、明智光秀の年表をわかりやすくご紹介します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

▲1528年(0歳)
美濃国(現在の岐阜県)に、明智城城主・明智光隆の長男として生まれる。


▲1556年(28歳)
長良川の戦いが起こり、斎藤義龍が明智城を攻める。
これによって明智一族は離れ離れとなり、光秀は浪人となる。


▲1556年~1565年(28歳~37歳)
浪人となり、各地を転々とする。
その後、越前(今の福井県)の大名、朝倉義景に仕える。


▲1568年(40歳)
朝倉義景から織田信長に仕える。

※参照:織田信長の年表を小学生でもわかるように簡単にまとめてみた


▲1571年(43歳)
織田信長が比叡山延暦寺焼き討ちを行う。
光秀は実行部隊として武功を挙げる。


▲1572年(44歳)
働きが認められ、現在の滋賀県に5万石を与えられる。
琵琶湖の近くに坂本城を建てる。


▲1577年(49歳)
丹波方面(現在の京都府の一部と兵庫県の一部)を攻めるよう命令される。


▲1579年(51歳)
丹波国29万石を与えられる。


▲1582年(54歳)
羽柴秀吉(=豊臣秀吉)とともに中国地方を攻めるように命令される。
進軍の途中に軍隊を引き返し、織田信長が宿にしていた本能寺を襲う(本能寺の変)。
信長死亡の知らせを聞いて中国地方から引き返してきた秀吉軍と戦い、敗北(山崎の戦い)。
逃げる途中に襲われて死亡。

※参照:豊臣秀吉の年表をわかりやすい形で簡単にまとめてみた

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

明智光秀が活躍し、歴史に名前を残すようになるのは、織田信長に仕えてからであることがわかります。信長の主だった戦いに参加し、新参者の中では出世頭であった光秀ですが、どうして主君である信長を襲う決意をしたのでしょうか。次の章でくわしく見てみましょう。

本能寺の変をわかりやすく解説


本能寺の変とは、1582年に明智光秀が主君である信長を裏切りった事件のことを言います。

近畿地方を支配下におさめつつあった信長は、中国地方を自分のものにしようと考え、羽柴秀吉らを向かわせます。光秀も秀吉とともに戦うため自分の軍隊を丹波(兵庫県あたり)まで進めますが、突然軍隊を引き返し、信長がいる本能寺に襲いかかります。

この時、本能寺に向かう途中の光秀が言ったとされるのが「敵は本能寺にあり!」という有名な言葉です。光秀に襲われた信長は自ら槍を持って戦いますが、勝ち目がないと分かった後に自害しました。


なぜ光秀が信長を襲ったのか、その理由は明らかにはなっていません。


そのため、

・光秀は日頃から信長に恨みを抱いていた
・自分が天下人になりたかった
・秀吉や家康と手を組んでいた
・足利家や朝廷などに頼まれた


こうした色々な説が考えられています。


光秀が信長に仕えるまでに色々な人のもとを渡り歩いていたことや、信長軍の中では新参者だったことを考えると、どの説も当てはまりそうですね。

この記事のまとめ


明智光秀はとても頭がよい人物で、信長にもそこを見出された人でした。
目立った活躍を見せるのも信長に仕えてからのことであり、光秀が歴史の舞台に出てきたのは、信長のお蔭なのかもしれません。

そんな明智光秀が最も有名になったのは、やはり本能寺の変で信長を襲ったからでしょう。


なぜ、光秀は信長を襲ったのでしょうか。

光秀がどんな人だったのか、どんな人生を歩んできたのか、今回ご紹介した情報を頼りに、あなたなりに推理してみると面白いかもしれませんね。

スポンサードリンク