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徳川慶喜という人物についてご存知ですか?

慶喜は江戸幕府、そして日本の最後の将軍です。大政奉還や江戸城の明け渡しなどを行ったことで知られています。
最近では大河ドラマ「青天を衝け」で、草彅剛さんが演じたことでも話題になった慶喜ですが、一体どんな人だったのでしょうか。

このページでは、慶喜の生涯や大政奉還とはどのようなものだったのかを、年表を交えながら小学生の方にもわかるようにまとめてみました。
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徳川慶喜ってどんな人?小学生にも分かるように解説!


まずは徳川慶喜がどんな人だったのかを、簡単にご紹介します。

徳川慶喜を一言で言うと江戸幕府の、そして日本の最後の将軍です。


慶喜は、1837年に水戸徳川家の9代目藩主、徳川斉昭(とくがわ なりあき)の7番目の男の子として生まれました。

慶喜は幼い頃から賢かったと言われていて、その才能は、江戸幕府の初代将軍である徳川家康と同じくらいだと言われるほどでした。また、慶喜の賢さを父親の斉昭も認めていて、長男に万が一のことがあった場合、その跡を継がせようと思っていたと言われています。

また、江戸幕府の偉い人の中にも、慶喜を次の将軍にしたいと考える人は少なくありませんでした。安政の大獄などの跡継ぎ問題に巻き込まれながらも、1866年に第十五代将軍となった慶喜は、日本の開国に積極的に取り組み、江戸幕府の再建に力を尽くしました。

そして、政権を天皇に返す大政奉還や、新政府側(新しく明治政府を作ろうとした人たち)の西郷隆盛、家来の勝海舟らと話し合い、江戸城を新政府側に明け渡しました。

これらの出来事によって、鎌倉時代から続いた武士の世は終わり、日本は天皇を中心とした近代国家へと生まれ変わっていくのです。

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徳川慶喜の年表を小学生にもわかるように解説!


ここからは、徳川慶喜の年表を小学生にもわかるようにご紹介します。


・1837年(0歳)
水戸藩(現在の茨城県)で生まれる。


・1857年(20歳)
徳川家の一族である一橋家(ひとつばしけ)の養子となり、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)と名乗る。


・1857年(20歳)
第十三代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)の跡継ぎの有力候補になる。
この時は慶喜派の人間の死により勢いを失い、第十四代将軍が徳川家茂(とくがわいえもち)に決まる。


・1859年(22歳)
安政の大獄によって、政治の表舞台からしりぞけられる。


・1859年(23歳)
安政の大獄を主導した大老、井伊直弼が殺されたため政治の表舞台に復帰する。

※参照:井伊直弼の人物像について。周囲の評判やお茶の逸話とは?


・1864年(27歳)
禁門の変が起こる。長州藩(今の山口県)と対抗する幕府側の軍を指揮し、勝利する。
このころ、渋沢栄一が慶喜の家臣となる。


・1866年(29歳)
十四代将軍の徳川家茂がなくなり、徳川十五代将軍になる。


・1867年(30歳)
大政奉還。幕府の持つ政権を天皇に返す。


・1868年(31歳)
江戸城を新政府側に明け渡し、江戸を去る。


・1913年(76歳)
風邪と肺炎により亡くなる。

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徳川慶喜が江戸城を新政府に明け渡したことで、源頼朝が鎌倉幕府をひらいた1192年から続いた武士の世の中は終わりを告げました。ちなみに、その後の慶喜は30代から76歳まで亡くなるまで、趣味である絵画や写真、弓道やサイクリングあるいは手裏剣にいたるまで、自分の趣味に没頭した生活を送ったそうです。

最後に、武士の時代をおわらせるきっかけになった、大政奉還という出来事について小学生の方でもわかるようにご紹介します。

大政奉還について小学生にもわかるように解説!


大政奉還とは、今までも紹介したように、分かりやすく言うと幕府の持つ政権を天皇に返すことです。この前には、薩摩藩や長州藩といった倒幕派(江戸幕府と徳川将軍家を倒すことを目的としていた人たち)の動きが活発になっていたため、徳川家の本拠地であった江戸城で戦いが起こってもおかしくない状況でした。

そうした時、徳川慶喜が政権を天皇に返したので、倒幕派は幕府を倒すという名目が無くなり、一度、幕府へ攻撃する予定を止めることになりました。

しかし、実際の政権はこの後も徳川家が引き継ぎ、江戸幕府と同じような権利を徳川家が持つという予定だったんですね。
これを知った倒幕派は天皇が権利を持つべきだと幕府に反発し、日本中を巻き込んだ戊辰戦争(ぼしんせんそう)が起こります。

この戊辰戦争によって江戸城は明治政府に明け渡されましたが、薩摩藩の西郷隆盛や幕府側の勝海舟らの力により、江戸の町が戦争に巻き込まれることはありませんでした。
また、慶喜も明治政府へ抵抗はしなかったので一命をとりとめ、徳川家も養子に継がせることで滅びることはなかったのです。

こうした事から、大政奉還は徳川家を救ったとも言われてます。

この記事のまとめ


徳川慶喜がどんな人だったのかを、分かりやすくご紹介しました。

慶喜は開国に積極的であったり、江戸城の明け渡しを話し合いの上で決定するなど、日本の行く末をしっかりと考えて行動していた将軍だと思います。特に、絶妙なタイミングでの大政奉還は彼のように賢い人物だったから成しとげられたことではないでしょうか。

そんな慶喜を語る上で、欠かせないのが家臣で江戸城明け渡しに力をつくした勝海舟(かつ かいしゅう)です。以下の記事では勝海舟についてわかりやすく解説しているので、興味があれば読んでみてください。

※参照:勝海舟ってどんな人?年表や業績を小学生向けに解説!