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あなたは「徳川秀忠ってどんな人?」と聞かれて、スラスラと答えられますか?

幕府を開いた父・徳川家康と、息子で生まれながらの3代将軍・徳川家光のカゲに隠れがちな秀忠ですが、実はは幕府の土台を作り上げた重要な人物なのです。

徳川秀忠の能力や性格についてみていきましょう。
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徳川秀忠ってどんな人?わかりやすく解説!


まずは徳川秀忠がどんな人だったのか、簡単にご紹介します。

徳川秀忠は1579年、家康の3男として誕生します。本来、3男が後を継ぐ事はなかなかありませんが、彼が生まれた年に家康の長男・信康は切腹、また次男・秀康は豊臣秀吉の養子となっていたため、3男であった秀忠が、跡継ぎとなることになるのです。

いつの時代も、人の運命って分からないものですよね…。

その後の秀忠は家康の後継者として、天下分け目の関ヶ原の戦いや、豊臣家を滅ぼした大坂の陣に出陣しますが、秀忠はこうした「武将としての大舞台」ではたびたび失策を犯すなど、ちょっと残念なエピソードを残しています。

その一方で、2代将軍とになって徳川幕府のリーダーとして手腕をふるった秀忠は、幕府の土台をつくるさまざまな業績を残し、有能な政治家ぶりを発揮しています。

また、真面目で実直な性格や、とても恐妻家だったなど、ちょっと微笑ましい人間像を伝えるエピソードも残されています。

徳川秀忠の能力はどのようなものだったのか


それでは、徳川秀忠の能力はどのようなものだったのでしょうか。
「武将としての秀忠の能力」「政治家としての秀忠の能力」の2つに分けて詳しく解説します。

武将としての徳川秀忠の能力について


徳川秀忠が武将として出陣した大きな戦いといえば、やはり1600年の関ヶ原の戦いです。

この時、東海道を進軍する父・家康の本隊に対して、秀忠は中山道を進軍する別働隊を率いるという役目を与えられました。進軍の途中、信濃の真田親子が守る上田城攻めに手間取り、また天候不順などにはばまれて進軍が遅れ、結果として関ヶ原の本戦に間に合わない!という事態に…。

つまり、秀忠は関ヶ原の戦いには参戦できなかった…ということになります。

その後、父・家康に戦勝祝いと遅刻の弁明をしようと面会を求めますが、家康の怒りは大きく、すぐには会ってもらえませんでした。この時は徳川四天王の一人である榊原康政のとりなしもあって、ようやく面会できたと言われてます。

※参照:榊原康政と本多忠勝の関係や兄の榊原清政、子孫について解説


また、1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣では、秀忠は徳川方の総大将として大軍を率いて出陣しています。しかし、今度は絶対に遅刻すまいと気合いが入りすぎたのか、強行な進軍をおこない、大坂に着いたときには兵達は疲れきって士気も下がり、その結果としてまたも父・家康に叱られるという残念なエピソードが伝えられています。

19世紀前半に作られた幕府の公式記録である「徳川実紀」にも、秀忠の兄弟たちは武勇や知略のある名将と記されているのに、秀忠の武将としての評価は低かったと記されています。実際、後世に残るような武功も残していないため、合戦上手な父・家康の跡継ぎとしては、どうしても見劣りすると考えていた人も少なからず居たそうです。

でも、武将としての秀忠を物語る資料には1つ、興味深いものも。

1958年に行われた遺骨調査の結果、秀忠は身長159cmくらいで筋肉質な体格であった事が分かっています。また、鉄砲キズの跡がいくつか見つかっていて、敵の激しい攻撃にさらされる前線で、指揮をとる勇猛な武将でもあった一面も明らかになっています。

戦上手な武将ではなかったけれど、勇猛な武士ではあったのかもしれませんね。

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江戸幕府2代将軍としての徳川秀忠の能力について


武将としてはちょっと残念?な徳川秀忠ですが、政治家としては大きな業績を残しています。
それは公家諸法度武家諸法度など幕府の屋台骨ともいえる、重要な法令をつくったこと。

これらの仕事は、2代将軍になっていた秀忠と、大御所となった家康の2人で成し遂げたものですが、この事からも、秀忠は、出来たばかりの幕府の土台を築き、代々存続させていくための仕事をするのに適した能力をもっていると、父・家康は見抜いていたのです。

また、父・家康の死後、名実ともに幕府のリーダーとなった秀忠は、自分に従わない弟・松平忠輝や譜代大名の本多正純の城や領地を没収したり、自分の側近の家臣たちを幕府の重臣に起用したりなど、反対派になるかもしれない勢力を退け、江戸幕府の基盤を強固なものにしていきます。更に娘の和子を後水尾天皇に嫁がせて、皇室や公家たちにも抑えをきかせました。

徳川家としては、年の離れた3人の弟をそれぞれ、尾張、紀伊、水戸に配置して徳川御三家の体制を整え、三男の忠長には、もともとの徳川の領地であった駿河、遠江、甲斐を与えています。

江戸幕府2代将軍としての徳川秀忠の能力をまとめると、実務にたけ、幕府の土台を揺るがないものにするための冷徹な判断力を持った人物だったと言えるでしょう。

※参照:徳川秀忠の将軍としての業績は?やったことを5つ解説!

徳川秀忠の性格を伝えるエピソードについて解説!


武将や将軍としてさまざまなエピソードが伝えられる秀忠ですが、その性格を伝えるこんなエピソードもあります。

「徳川実紀」は、武将としての秀忠の評価は低いものの、父・家康の方針を実直に受け継いでやっていく真面目で温厚な人物と伝え、また『名将言行録』巻之四十二には、13歳の時、儒学の講義を受けていた部屋に牛が乱入して大騒ぎになったが、秀忠は騒がず落ち着いた様子で講義を受けつづけていた、というエピソードも紹介されています。

後の時代に書かれた記事ということを考えると、立派な優れた将軍のイメージをあえて伝えているのかもしれませんが、勇猛な武士の一面もあると同時に、実直で冷静な一面もある奥行きの深い人物だったようです。

また2男5女をもうけた5才年上の正室・お江(崇源院)以外には正式な側室を生涯もたなかった、というのも戦国時代の武将、まして将軍としてはめずらしいケースで、そんなところから、秀忠は正室・お江に頭が上がらない恐妻家だったのでは?とも言われています。

こんなところにも、秀忠の真面目で律儀な性格がうかがえるかもしれませんね。

※参照:徳川秀忠の妻について。江との夫婦仲や側室の存在は?

この記事のまとめ


徳川秀忠ってどんな人?」というテーマで、秀忠の能力を軍事、政治両面に分けて解説すると共に、その性格についてもご紹介しました。

武将としての能力には若干の疑問が残るものの、江戸幕府の将軍としては非常に大きな業績を残している秀忠は、真面目で温厚な性格だとされる一方で、冷静で奥行きがある一面もありました。

その真面目で実直な性格から、良き息子、良き夫である一方、冷徹な大名統制を行なうなどやり手の政治家だった秀忠。徳川の世を守り、戦のない世が続くために力を注いだ縁の下の力持ち、といった感じでしょうかね。

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