仙石秀久は秀吉に古くから仕えていた武将です。
彼をモデルとしたセンゴクという漫画もあり、よく知られている武将かもしれませんね。
また、無という家紋についても一度は目にした経験もあるのではないでしょうか。
今回は、なんとなく知っていそうなイメージのある仙石秀久の能力を詳しく見てみると同時に、家紋や子孫についても解説していきます。
目次
仙石秀久の能力は?無能だと言われる事もあるが…
まずは仙石秀久の能力についてみていきたいと思います。
秀久の能力は、肯定的なものと否定的な評価に別れますが、ここではその2つに分けて考えてみましょう。
仙石秀久の能力は無能なのか?
仙石秀久は、リーダーとしての能力はあまりない武将だったと思われる面があります。
九州征伐では秀吉の命令に背いで独断で動き、戸次川の戦いで大敗を喫した事が、秀久の能力を無能だとする大きな根拠になっています。この戦いで戦死した長宗我部信親や十河存保などの四国勢が奮戦する一方、彼らをまとめる立場にあった秀久はいち早く居城に逃げ帰ってしまい、秀吉から改易処分を下されてしまいました。この点からは、秀久はリーダーとしてはあまり向いていない武将だったと考えても仕方がないと思います。
また、秀久は江戸時代には小諸藩主として政治を行うのですが、その統治の厳しさのあまり農民が逃亡した事もあったそうです。他にもルイス・フロイスは秀久を「無作法な人物」と評価しており、これらの点も秀久の能力を無能だとする大きな要因と言えそうですね。
仙石秀久の能力を肯定的な立場から見てみると?
その一方で、仙石秀久の能力を無能と断じる事は出来ない面もあります。
秀久は姉川の戦いや中国征伐で活躍しており、本能寺の変後に明智光秀に味方した豪族達を討伐し、淡路を平定するなど、秀吉が出世する過程の戦いで戦功を挙げてきました。こうした武将としての秀久の能力については、ルイス・フロイスもきちんと評価しています。
個人的に、仙石秀久の能力で特筆すべきなのは、世渡り力やコミュニケーション力にあったのではないかと思います。秀吉の古くからの家臣の中には追放、粛清された人物が少なからずいるのですが、秀久は彼らとは異なり、戸次川の戦いで改易された後、小田原合戦で手柄を立てて大名として復帰しています。また、秀吉の死後はいち早く徳川家康に接近していた事からも、仙石秀久の時世を読む力が伺えます。
この他には、農民の逃亡を招いた小諸藩主時代には、年貢の減額や名産品としたそばによって農民とやり取りを行うなどの施策も見せています。そんな秀久を慕う農民も少なからずいたようで、その名字から「仙石さん」というあだ名で親しまれてたと言われています。
仙石秀久の能力を無能と断じるべきか、それとも実は有能な武将だったのかの評価はなかなか難しいですね。個人的には、秀久はリーダータイプではなく部隊長、中間管理職としての能力はあったと思います。
また、農民たちから呼ばれた「仙石さん」というあだ名には、秀久が藩のリーダーとして、自身の欠点を補うために奔走した結果なのかなと感じますね。
仙石秀久が用いた2つの家紋とは?
そんな仙石秀久ですが、以下の2つの家紋を用いていた事で知られています。
永楽銭紋
この永楽銭紋は、もとは織田信長の家紋だったのを与えられた事で使い始めたそうです。
「永楽」という言葉の縁起の良さを買って使用したという説もあるようです。
また、貨幣を家紋として使う「銭紋」は、豊かである事をあらわした家紋として、多くの武将たちが使用していました。
※参照:織田信長の家紋の読み方や木瓜紋の意味を簡単に解説!
丸に無
この「丸に無」紋は永楽銭紋についで使われている家紋です。
小田原合戦で、秀久は紺地に無の字を白く出した馬印を使用していたそうです。秀吉の家臣から追放され、すべてを失い、まさに何もない状態だからこそ、小田原合戦で活躍して豊臣家に返り咲きたいという心意気であるように感じます。
仙石秀久が使用していた二つの家紋は、秀久が秀吉の側近で絶頂の頃を表しているものと、戸次川の戦いの失敗によって改易され、どん底の時期を表すものと両極端であると思います。
自分には何もない「無」だからこそ手柄を立てなければいけないという風にも解釈でき、これは現代にも通じるものがありますね。
仙石秀久の子孫は現代でも続いているのか?
小諸藩主として大名に復帰を果たした仙石秀久ですが、その子孫はどうなったのでしょうか。
秀久の跡を継いだのは3男の仙石忠政です。彼は上田合戦や大坂の陣で活躍した事で、かつて真田家が治めていた上田藩に1万石の加増転封を認められていました。その後、忠政の孫にあたる3代目藩主の仙石政明(せんごく まさあきら)の代に但馬国(今の兵庫県)の出石藩に転封され、秀久の子孫は幕末までこの地を治める事になりました。
江戸後期には「仙石騒動」と呼ばれるお家騒動が発生した事もありました。これは出石藩の藩政改革を巡る改革派と守旧派の争いが幕府内の権力争いにまで発展したもので、改革派の施策が上手くいかなかった事もあって守旧派が勝利する一方で、出石藩は5万8千石の領国を3万石へと削られてしまいました。
もっとも、出石藩そのものは存続し、最後の藩主である仙石政固(せんごく まさかた) は明治時代に子爵、貴族院議員となっています。その後の記録としては仙石政恭(せんごく まさやす)という方が昭和47年に独身のままで亡くなり、本家筋は断絶してしまったのだとか。
ただ、仙石氏には分家筋が多数あるので、秀久の血を引く方は日本全国に少なからずいるものと思われます。
この記事のまとめ
仙石秀久の能力を肯定的、否定的な両面から分析すると共に、その家紋や子孫の有無についてもご紹介しました。
秀久は、リーダーとしての能力は少々疑問であるものの、数多くの戦いに従軍してその家系を幕末まで存続させた事から、戦国武将としては有能だったと言えるのではないでしょうか。また、彼が使用していた「丸に無」の家紋は、現代人にとっても考えるところがありますね。
また、仙石秀久をモデルにした漫画「センゴク」を読んでみると、秀久の様々な魅力を味わえるので面白いと思いますよ。
仙石家の家紋は永楽通宝です、合戦の軍旗は丸に無を使っており仙石家の裏紋と教えられました。現在、軽井沢町に仙石家子孫が住んで居ります。旧姓、仙石直孝には男系男子が二代目先までおります。
なお、私の祖母は小諸藩の牧野家より嫁いで来たと聴きました。(確認する必要がある)
仙石久英さんの長女の嫁ぎ先の縁者です。
一昨年、長女様はお亡くなりになりました。93歳でした。
嫁入り時に託された家宝や仙石政恭さんから幾つのも形見分けされたものもほとんど残っていません。
近隣に住む自称縁者が根こそぎ持っていたと聞いています。最後は穏やかなもので、ご子息2名にご自宅で看取られ神前式の葬儀にて送られました。
最後にはかなり困窮されていらしたようです。
昭和天皇の皇后のいとこということでプライドも高く、生活保護の受給を勧められていたようですが、固辞されていたとのこと。
嫁ぎ先も昭和20年代までは富豪と呼べるほどで、家業の酒屋さんもかなり繁盛していたようですが・・・
盛者必衰とは言え、葬儀ではさみしさを感じました。
長女様の嫁ぎ先の縁者です。
最近、センゴクの人気のためか、自称縁者やとんでもない主張をされる東北の分家筋の方が多数おられるようで・・・
他にも書きましたが、仙谷家としては本家断絶の際、「仙谷」を主張・売名に利用されることを非常に嫌がっておいででした。
(阿幾子様の嫁ぎ先の万蔵氏が仙谷本家の養子になる話を断った理由もその辺にあるとのこと)
資料やその他はかなり残っています。
そして、本家は静かに消えていくという選択をされたのだと。
近隣では”お姫様”と言われていた阿幾子様も、静かに亡くなっていかれたのは”そういう”意思表示だったのかと勝手に思っております。
少なくともどこかの尖閣問題で一族だと主張されたふざけた元議員先生のような人物が”2度と現れない”ことを祈念します。
近くを通勤で通っていた佐久のお寺に仙石秀久公と仙石内膳政直公のお墓が並んで祀られています、長い間お参りに行っていない不信心者です、久しぶりにお墓に行ってビックリ数十メートル離れた場所に永楽通宝の家紋が付いた見知らぬ名字の立派なお墓があります。仙石家の皆さん御確認いただき親戚か教えて下さい。