清少納言の才は、かの紫式部が嫉妬するほどだったとか。
その文才と感性のすばらしさは『枕草子』を読めば明らかです。

では、清少納言の才能はいかにして生まれたのか。
彼女の父親である清原元輔をはじめ、2人の夫とその子供から見ていきましょう。

スポンサードリンク

清少納言の父親の清原元輔は百人一首にも登場している


清少納言の父親は「梨壷の五人」として名高い清原元輔です。
「梨壷」とは天皇の命によりおかれた和歌所のことで、元輔はその中で『後撰和歌集』の編纂等をおこなっていました。
言うならば、清原元輔は天皇直属の歌人だったのです。


元輔は、平安時代の和歌の名人36名の総称である「三十六歌仙」の一人に名を連ねています。
また、百人一首の42番にも歌が採用されており、その歌才の片りんを見ることができますよね。


ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは

これが、百人一首における清原元輔が詠んだ歌です。


一方、清原元輔の官位は従五位と、さほど高かったわけではありませんでした。
現在の山口県東南部にあたる周防国の国司を経て、晩年は肥後にて亡くなっています。


さて、
文才に秀でた清少納言でも、歌に関していえば、父に及びません。
こんな逸話があります。

清少納言はときの一条天皇中宮定子の目に留まり、女房として出仕していました。
あるとき、宮中で歌を求められた際
父の名を辱めたくないので歌は詠まない
と断ったそうです。

父親の存在が彼女を随筆家へと導いた、と言っても過言ではないのでしょうか。

※参照:清少納言ってどんな人?年表や枕草子を小学生向けに簡単に解説

清少納言が一人目の夫と離婚してバツイチになった理由とは?


清少納言の一人目の夫は橘則光(たちばな の のりみつ)です。
「源平藤橘」と呼ばれる、当時名の知れた橘氏の長者になった人物でした。
人望があり、強く優しい夫との間に、清少納言は則長と言う息子をもうけています。


だというのに、なぜ離婚?


二人は決定的な仲違いをして別れたわけではありませんでした。


性格の不一致と言いましょうか、武骨な橘則光は、雅な清少納言と合わなかったようです。
和歌はあまり好まなかったとのこと。


対して、子供である橘則長は歌人として名を残しています。
その生涯は文官としてキャリアを務め、赴任先の越中国(今の富山県)で亡くなったそうです。

清少納言と橘則光。二人は別れた後もちょくちょく、連絡は取り合っていました。
しかも、宮中公認です。
兄妹のような友人という関係が二人にはしっくりきていたようですね。

スポンサードリンク

清少納言の2番目の結婚は歳の差婚!夫の藤原棟世とは?


清少納言の2番目の夫は、20歳近く年上だったと言われている藤原棟世です。
「ふじわら の むねよ」と読みます。
藤原不比等の子供で、藤原南家の始祖である藤原武智麻呂の孫に当たる人物です。


さて、清少納言と藤原棟世の仲はどのようなものだったのでしょうか。
実は二人の結婚生活がどんなものだったのかは定かではありません。
橘則光は『枕草子』に登場するのですが、棟世は出てこないのです。


たいして好きでなかった?


いえ。
小馬命婦(こまのみょうぶ)と呼ばれる娘がいます。


それに清少納言は、仕えていた定子が崩御されると
ずいぶんと肩身の狭い思いをしたようで、
いっとき棟世の任地である摂津に身を寄せていますから、
冷めきった結婚ではなかったと思われます。


小馬命婦は中宮彰子に女房仕えになりました。
彰子は藤原道長の娘にあたり、定子亡き後は名実ともに皇后です。
母を目の敵にしていた紫式部がいましたし、対抗勢力でもありました。
そこに仕える心中はいかなるものだったのやら…。

スポンサードリンク

この記事のまとめ


清少納言という呼び名。
清は父、清原元輔の姓からとしても、少納言の由来はわかっていません。
身内にその位を持つ人物がいないと、呼ばれることはないらしいのですが。


とは言え、
彼女の才と、彼女を取り巻く家族、皇后定子との絆を想えば、
彼女自身が少納言の位を授かってもおかしくないかも
なんてことを考えてしまいます。


ちなみに、以下の記事では紫式部の家族について解説しています。
興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:紫式部の父親の藤原為時とは。夫や子供の大弐三位も解説!