豊臣秀吉の天下統一。
これを成した最後の仕上げともいうべき戦いが小田原征伐です。
全国から多くの武将が参加することとなったこの小田原征伐ですが、それは真田昌幸ら真田氏にとっても例外ではありませんでした。
今回は、小田原征伐と真田昌幸など真田一族との関わりについて考えます。
小田原征伐の原因とその時代背景について
小田原征伐の直接の原因は、北条家の家臣である猪俣邦憲(いのまた くにのり)が真田昌幸の所領である名胡桃城に攻め込み、占領した事にあります。
この猪俣邦憲の行動が、豊臣秀吉が出した「惣無事令」と呼ばれる、大名間の争いを禁じた法律に触れた事が問題視され、これが原因となり小田原征伐が勃発したとされています。
当時の時代背景についても簡単に見てみましょう。
当時の関東甲信越の情勢は、甲斐武田氏の滅亡とともに、さらなる混乱を招いていました。
かつて武田氏の家臣であった真田昌幸は、主君である武田勝頼の生前、北条家の支配下にあった上野国(現在の群馬県)の沼田領を1579年に攻略していました。
しかし、武田氏の滅亡と織田信長の死が立て続けに起こると、旧武田領は周囲の大名から狙われることとなったのです。
その代表格が徳川家康と北条氏政、氏直の親子で、両者は天正壬午の乱などで激突。徳川家が優勢に戦いを進めるも、最終的には家康の娘と氏直を結婚させることで、両家は和睦します。
※参照:北条氏直の系図がすごい理由とは?人物像や評価にも迫る!
しかしその講和条件の中に、真田領である沼田の割譲があり、これが原因で真田昌幸は徳川氏・北条氏から離反しました。
これを仲裁したのが豊臣秀吉です。
沼田領の3分の2を北条氏のものとする代わりに北条氏政・氏直が上洛するということでその場は収まりましたが、その後、氏政・氏直の上洛もなく、北条氏の家臣が残りの3分の1である真田氏の沼田領に侵攻したのです。
これは惣無事令違反であるということになり、秀吉は小田原征伐に乗り出したのです。
小田原征伐で真田昌幸と真田家はどのように動いたのか?
先程もお話したように、小田原征伐のきっかけとなったのは真田昌幸の領有している沼田城の問題でした。
自分で手に入れた沼田領を、裁定を守らずに侵攻された真田昌幸は大変腹に据えかねていたのではないかと私は思います。
もちろん、真田昌幸は豊臣方として小田原征伐に参加することになりました。
では、小田原征伐で真田昌幸を筆頭とする真田家はどのように動いたのでしょうか?
真田昌幸は加賀の前田利家、越後の上杉景勝と共に「北方隊」に配属され、秀吉や家康が率いる主力をサポートする牽制役を担い、北条氏の持つ各支城を攻略していくことになります。
この支城攻略のほとんどに真田昌幸・信之・幸村親子が参加をしており、また、幸村の初陣がこの小田原征伐であったということが発見された史料から考えられています。
特に、「のぼうの城」でも有名な忍城の攻略に幸村が参加したという説があります。
その後、北条方の分裂や士気低下により、小田原城は開城される運びとなりました。
小田原征伐のその後、真田家の所領はどうなった?
小田原征伐の後、徳川家康は関東へと移されることになりました。
そして、家康の牽制のために周囲に豊臣系の大名が配置されるのですが、小田原征伐のきっかけとなった沼田領も、この牽制の地として都合が良かったようです。
真田昌幸は沼田領を含む旧領を秀吉に安堵され、家康の牽制に一役買うこととなります。
また、当時の真田昌幸は家康の与力大名(中級大名が大大名の参加に入ること)と見なされていたのですが、この頃から秀吉の信任を獲得し、正式な大名として認められた可能性が示唆されています。
その後、沼田領は嫡男であり、家康の養女で本多忠勝の娘と結婚していた真田信之に与えられ、昌幸の上田領から独立しています。
この記事のまとめ
小田原城征伐は、豊臣政権を語る上で非常に重要な戦いです。
その原因は、真田昌幸と北条家の間に存在していた所領の問題でした。
真田昌幸ら真田家は小田原征伐に参戦し、その後は沼田領を含めた旧領を安堵されています。
その後も徳川氏と対立していく真田昌幸ですが、この沼田領の問題が尾を引いていた部分もあるのではないかと私は思います。
なお、以下の記事では小田原征伐における徳川家康の行動をまとめているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さい。
※参照:小田原征伐おける徳川家康の行動や北条氏規との交渉について