「さなださえもんのすけゆきむらが〜」といった官位をつけて真田幸村を紹介する事が少なからずありますが、こうした「さえもんのすけ」という官位には、一体どのような意味があるのかご存知ですか?
今回は、幸村の官位である従五位下左衛門佐をはじめ、真田昌幸の安房守や真田信之の伊豆守など、真田家の官位について見ていきたいと思います。
真田幸村の官位「従五位下左衛門佐」の意味とは?
真田幸村は1594年に、従五位下左衛門佐(じゅごいのげ さえもんのすけ)という官位を与えられているのですが、この官位には一体どういったものだったのでしょうか。
ここでは、「従五位下」と「左衛門佐」の2つに分けて考えてみたいと思います。
まずは左の「従五位下」(じゅごいのげ)ですが、これは律令制における日本の位階の1つです。
上下の位は以下のようになっています。
・正五位下
・従五位上
★従五位下←幸村の官位
・正六位上
・正六位下
見ていてややこしいですね(笑)
ただ、前の方に「正」と「従」がある事と、後の方に「上」と「下」といった細かい違いがあるのが分かると思います。
「従」より「正」が偉い。
「下」より「上」が偉い。
こう覚えておくと分かりやすいかもしれませんね。
ちなみに、近代以前の日本において従五位以上の官位を持つ者は、律令制においては「貴族」とされていました。
実際はともかく、少なくとも建前上は幸村は貴族だったと言えそうですね。
一方の「左衛門佐」(さえもんのすけ)という官位ですが、これは簡単に言うと都の左側の門を守るための役職という事になります。門を守る役職にも色々とあり、左衛門佐は門を守るトップ、つまり左衛門督を補佐する役職という事になります。
それぞれの位と就いた戦国武将を並べてみましょう。
・左衛門督:朝倉義景、酒井忠次、小早川秀秋など
・左衛門佐:真田幸村、小早川隆景
・左衛門尉:村上義清など
なお、左側の門を守る役職があるという事は、当然右側の門を守る役職があるという事になります。それぞれ右衛門督、右衛門佐、右衛門尉ですね。また、督、佐、尉はそれぞれ従四位、従五位、従六位または正七位の官位につく事が多かったそうです。
真田昌幸は安房守、真田信之は伊豆守。では「〜守」とは?
真田幸村の官位について解説しましたが、父の真田昌幸や兄の真田信之もそれぞれ官位をもらっています。
・真田昌幸:従五位下安房守
・真田信之:従五位下伊豆守、後に従四位下侍従
昌幸は1580年に安房守を、信之は幸村と同じ年の1594年に伊豆守になっており、その後いつなのかは不明ですが侍従に昇進しています。
この安房守や伊豆守といった「〜守」という官位の意味ですが、国司=調停の派遣する地方行政官の呼び名で、今でいうと各都道府県の知事が当たるといわれます。ただ、実際には領土とは関係なく任命される事も少なくありませんでした。昌幸も信之も、それぞれ安房(千葉県南部)や伊豆(静岡県東部)を治めたことは一度もありません。
こうした官位を与えるのは朝廷だったのですが、武士が政治の実権を握った頃から朝廷は幕府などに押されてしまい、その役職である国司の権限は地に落ちてしまって、戦国時代には安房守や伊豆守などの「~守」という役職はあまり意味がなくなっていました。
また、朝廷から任命を受けずに勝手に名乗るケースや、献金によって朝廷から官位をもらうケースもあり、こうした官位は戦国時代にはお飾り的なものになっていたようです。
他には、主君からの恩賞として「〜守」といった官位が与えられる事もありました。
織田信長に仕えた明智光秀は従五位に相当する日向守(今の宮崎県)を、そして秀吉は筑前守(今の福岡県)といった官位を1575年に与えられています。当時の信長の官位は大納言=正三位であり、主君の官位のランクを越えなければ家臣にも官位は与えてもよかったそうです。
とは言え、こうした官位は「お飾り」としてはまだまだ有効でした。そのため、大名などが家臣団などの序列を明確化させる際に利用されており、一方の朝廷側も大名の献金を集める手段や自分たちの価値を示すために利用していたとも言えそうです。
この記事のまとめ
真田家の官位というテーマで、真田幸村の官位「従五位下左衛門佐」をはじめ、安房守や伊豆守といった官位の意味について、当時の官位の仕組みや実情などをご紹介しました。
戦国時代の官位は、形骸化していていたためにそれ自体に意味はありませんが、恩賞や序列を明らかにする上ではまだまだ利用価値はありました。真田家の官位についても例外ではなく、安房守であると名乗る事によって武将として箔をつけていたと言えるでしょう。
なお、以下の記事では摂政、関白、太閤、太政大臣、征夷大将軍の違いについて解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:摂政、関白、太閤、太政大臣、征夷大将軍の違いをわかりやすく解説!