2018年の大河ドラマが『西郷どん』に決まり注目が高まってきた西郷隆盛。
しかし、彼の元々の名前は「隆永」であり、「隆盛」というのは父親の名前だった事はあまり知られていません。
一体なぜ、こういた事が起きたのでしょう?
そもそも西郷隆盛の父親、そして母親ってどんな人だっけ?
これらの疑問にお答えします!
西郷隆盛の父親、西郷吉兵衛ってどんな人?
はじめに、西郷隆盛の父親である西郷吉兵衛についてご紹介します。
西郷吉兵衛は薩摩藩の下士、西郷隆充(たかみつ)という人物の長男として1806年に生まれました。弟には大山綱昌(おおやまつなまさ)という人物がいて、この綱昌の子供が日露戦争で活躍した大山巌に当たります。
8歳の頃に当時の薩摩藩藩主、島津斉興にお目見えし、後に小姓組という家格の下級藩士になります。1845年には「勘定方小頭」という役職につき、その2年後に父親がなくなり、西郷家の家督を継ぐことになります。
そんな西郷吉兵衛は周りから、「バカがつくほどの正直者」だけど「とても役に立つ」と認められていました。また吉兵衛には200両(今なら1200万円相当)の借金があったとも言われていますが、こうした金額を借りれたのも、それだけ吉兵衛に人望があったことの証なのでしょう。
また、1850年に島津家で「お由羅騒動」と呼ばれるお由羅騒動が発生した際、斉彬派として切腹を命じられた赤山鞍負(あかやまゆきえ)の介錯を行ったという説が残されています。この時、吉兵衛は血で染まった赤山の肌着を譲り受け、長男・隆盛にその最期を涙ながらに語ったそうです。隆盛は赤山の最後に感じ入る部分があり、これが誠忠組の結成や斉彬の為に奔走する事へと繋がったと言われています。
西郷隆盛の本当の名前は「隆永」だった!?
この西郷吉兵衛ですが、実は本名を「隆盛」と言いました。
そして私たちが知っている「西郷隆盛」は、実は本名を「隆永」と言ったのです。
では息子の「隆永」が、なぜ父親の名前「隆盛」を名乗ることになったのでしょう?
その由来をみてみると、実は…単純な間違いがもたらした結果だったのです。
息子の方の隆盛(=隆永)はもともと、吉之助と呼ばれていました。ある時、明治政府樹立の貢献者である彼に位を授ける話しになった際、吉之助の正しい諱が必要になりました。しかし政府の役人は本人と連絡がとれなかったので、同郷の人に名前を尋ね回ったそうです。ところがなんと誰も本名を思い出せません。諱というのは友人に名乗るものでないから「吉之助の本名?」ってなっちゃったんです。
すると吉兵衛の友人である吉井友実が「隆盛じゃなかったか?」と言い出し、それがそのまま本名として登録されてしまったのだとか。こうして知らぬ間に「隆盛」になってしまった「隆永」ですが、本人は気にもとめずにそのまま「隆盛」を名乗ったんですね。「俺は隆永だ」と文句言わないところが、さすが西郷どん!と言った所でしょうか…。
余談ですが、吉之助の弟である西郷従道も本名ではありません。従道の本当の名は「隆興」だったのですが、「リュウコウ」と発音したのに訛りが強すぎて「ジュードー」に聞こえ「従道」になったそうです。そして弟もそのまま「従道」を名乗る事に…。なお、西郷従道については以下の記事で解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:西郷従道の略歴や海軍での功績について。西郷隆盛との関係は?
西郷隆盛の母親、マサはどんな人?
最後に、吉兵衛の妻であり、隆盛や従道の母についても見ていきましょう。
西郷隆盛、従道の母親はマサ(満佐、政)という女性です。生年や吉兵衛に嫁いだ時期は分からないものの、父親は椎原国紀という薩摩藩士だった事は明らかになっています。
マサは吉兵衛との間に7人の子供を授かっているのですが、当時の西郷家は借金がかさんで貧乏状態。「布団も買えなかったから、一つの布団に兄弟全員が足を突っ込んで寝た」と、隆盛は後に回想しています。そこまで貧乏だった西郷家ですが、人々は笑いで包まれていたと言われています。マサの果たした役割は非常に大きかった事でしょう。
当時の下級武士の女性は皆同じだったと思いますが、マサは内職で着物を縫ったり、野菜を自家栽培して家計の足しにしていたそうです。また、マサは子供達に対して「恥ずかしいのは貧乏な事ではない。これに負ける事が恥なのだ」という事をよく言い聞かせたとされていました。これは薩摩藩に代々伝わる「郷中教育」というシステムで、現在のボーイスカウトの原点になった考え方だとも言われています。
そんなマサですが、1853年に病気でなくなります。実は西郷家はその前年にマサの舅の隆充、そして夫の吉兵衛が立て続けになくなっていた状況でした。そんな中、マサは自分が病気にも関わらず、舅や夫を献身的に看病したのだとか。
隆盛は「敬天愛人」(自分を愛するように他の人を慈愛する)をモットーとしていたそうですが、まさしくマサはそれを実践して見せたということになりますね。
この記事のまとめ
このページでは西郷隆盛の父親、母親、そしてなぜ「隆永」から「隆盛」へ名前が変わったのかについてご紹介しました。
子供が7人いて、しかも借金だらけの状況にも関わらず、西郷家は明るい家庭でした。こうした苦しい現実の中、後に明治の元勲とも言われる二人の子供を育て上げた西郷吉兵衛、そしてマサの夫婦はとても器の大きな方だったのだと思います。
なお、以下の記事では西郷隆盛の3人の妻について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:西郷隆盛の妻について解説。すが、愛加那、糸子の生涯とは?