貼り付けた画像_2016_07_06_17_37


西郷隆盛は、薩摩藩(今の鹿児島県)出身の歴史人物です。幕末に活躍し、明治維新を成しとげました。

しかし優れたリーダーぶりを発揮したにもかかわらず、明治10年にその明治政府と戦い、敗れたのち自決します。


そんな西郷隆盛とは、いったいどんな人だったのでしょう。

ここでは西郷隆盛の年表や、西南戦争との関わりも含めて小学生向けにわかりやすくまとめてみたいと思います。
スポンサードリンク

西郷隆盛ってどんな人?小学生向けにわかりやすく解説!


西郷隆盛はどんな人だったのか。ひとことで言えば、リーダーの中のリーダーで、その存在感からみんなに慕われる存在だったと思います。

西郷隆盛の実家は薩摩藩(今の鹿児島県)の下級藩士でした。同じ年代の若者たちのリーダーとして、若いころから知られていた隆盛は、1864年におこった禁門の変で、薩摩軍を指揮して長州藩(今の山口県)と戦っています。
しかし、江戸幕府を倒すことを決めた隆盛は、1866年に長州藩と仲直りをして薩長同盟を結びます。

ちなみに、この時に薩摩藩と長州藩の仲立ちをしたのがあの坂本龍馬です。

※参考:坂本龍馬ってどんな人?年表や業績を小学生向けに解説!



その後、西郷隆盛の薩摩藩は徳川家の江戸幕府とたたかい、最終的には幕府軍の勝海舟との話し合いにより江戸城を開城させるなど、ここでもリーダーとして活躍しました。

明治政府の中での隆盛は、参議と陸軍大将(陸軍のリーダー)や近衛都督(天皇を守る部隊のリーダー)など色んな役目を任されます。

当時の明治政府では、鎖国している韓国を武力で開国させようとする議論(征韓論)が盛んでした。隆盛は自ら交渉役となって平和的に解決したいと希望します。しかし反対派の工作により失敗に終わったため、参議をやめて鹿児島に帰ることになります。

最後は、明治政府に不満を持つ士族のリーダーとして西南戦争を起こし、敗れて自決の道を選びました。

スポンサードリンク


西郷隆盛のわかりやすい年表を小学生向けに解説


ここでは西郷隆盛の年表を、小学生でも分かるように簡単にまとめてみました。


・1828年(0歳)
薩摩国(今の鹿児島県)で生まれます。


・1854年(26歳)
薩摩藩の殿様、島津斉彬(しまづ なりあきら)に仕えます。
隆盛はこの島津斉彬をとても尊敬していて、
斉彬が亡くなった時に後を追いそうになった事もあります。


・1864年(36歳)
禁門の変が起こります。
西郷隆盛は薩摩藩の軍隊を率い、長州藩の軍隊に勝ちます。


・1866年(38歳)
坂本龍馬らの仲介で、薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結びます。


・1868年(40歳)
江戸幕府の勝海舟と交渉して、江戸城の開城に力をつくします。


・1871年(43歳)
岩倉使節団(いわくらしせつだん)が欧米視察に出発します。
隆盛は留守政府を任されました。


・1873年(45歳)
隆盛は、征韓論(今の朝鮮半島に出兵するという主張)を唱えますが、日本へ帰国した岩倉使節団の大久保利通らに意見を退けられたため、明治政府をやめて、故郷の鹿児島へ帰ります。

※参照:大久保利通ってどんな人?年表や西郷隆盛との関係を小学生向けに解説


・1874年(46歳)
鹿児島に私学校(地元の若者を育てる組織)を設立します。


・1877年(49歳)
隆盛は西南戦争を起こしますが、破れて城山にて自決します。

スポンサードリンク


江戸幕府をたおし、明治政府の設立に大きな功績を残した西郷隆盛ですが、最後は地元の若者たちのリーダーとなって西南戦争をおこし、かつて自分が設立した明治政府へ反乱を起こしています。

しかし、結果は敗北。隆盛は自分の命を終えました。

それでは、なぜ西郷隆盛は西南戦争を起こしたのでしょうか。
以下で一緒に考えてみましょう。

西郷隆盛が西南戦争をおこした理由とは?


実は、西郷隆盛は西南戦争に対して、ほとんど自分からは何もしていませんでした。
隆盛は鹿児島の人たちによって担がれていた、お神輿のような存在だったのです。

この時代、士族(江戸時代に武士だった人たち)の不満がとても高まっていました。

なぜなら、刀を持てるとか、給料(米ですが)をもらえるといった武士の特権を、明治政府に次々と取り上げられたからです。
これを不満に思った士族は、今の山口県や佐賀県で相次いで反乱を起こしますが、いずれも明治政府に鎮圧されていました。

西郷隆盛が鹿児島に帰ったのはそういう時期でした。だからこそ、明治政府も警戒をしたし、本人もこうなる事はある程度は予想していたはずです。


鹿児島に帰った隆盛は、私学校という若者を育てる組織をつくります。武器を手に立ち上がろうとする若者を教育し、組織で抑えるためだったかと思います。しかし、私学校の規模が大きくなるにつれ、政府もスパイを送り込むなど対策をはじめます。政府の動きを知った私学校の生徒たちの一部は、政府の火薬庫を襲撃し武器を奪ってしまいました。

隆盛はその知らせに「しまった」と叫んだといいます。薩摩の若者を心配すると同時に、その先にある自らの運命をも見抜いていたのかもしれません。

隆盛の西南戦争へのかかわり方は、若者たちの運命に自ら寄りそった。
これが実際だろうと思います。

スポンサードリンク

この記事のまとめ


西郷隆盛がどんな人だったのかを、小学生向けにわかりやすくご紹介しました。

隆盛はみんなに頼られるリーダー的な存在だったようですね。そのためか、明治時代になり出番がなくなっていく士族の立場に同情、共感し、西南戦争をおこしたという見方もあります。

結果としては失敗に終わったものの、こうした周りの事を考えて動ける隆盛は、今なお地元の鹿児島の方から愛されています。こうした点から隆盛の人生を考えると、彼のまた違った姿が見えてくるのではないでしょうか。