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2009年に放送された大河ドラマ「天地人」をご存知ですか?

このドラマは上杉家の家老・直江兼続の一生を鮮やかに描き出し、人気を集めました。
「天地人」をきっかけに、戦国時代に興味を持たれた方も多いのではないでしょうか。

そんな大河ドラマの主役になる直江兼続は、一体どんな武将だったのでしょうか。そこで今回は、直江兼続がどんな武将だったのかにスポットを当て、彼が愛用した「愛の兜」や、上杉謙信との関係にも言及します。
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直江兼続とはどんな武将だったのか?


まずは直江兼続がどんな武将だったのかについて、簡単に見てみましょう!

直江兼続は1560年に、越後上田庄(現在の新潟県南魚沼市)で樋口兼豊という人物の長男として生まれました。そのためもともとは「樋口」という名字でした。「直江」というのは1581年に、主君である上杉景勝の側近のある直江信綱が暗殺された時、その妻と再婚して、直江家の婿養子となった事から名乗ったものです。

1564年に長尾家当主・長尾政景が死去すると、わずか4歳の兼続は政景の子である顕景(上杉謙信の養子で、後の上杉景勝)につき従って春日山城に入ります。景勝の知遇を得た兼続は、謙信死後に起きた上杉家の跡継ぎ争い・御館の乱では景勝に味方し、以後景勝の近習として活動することになりました。

そして1584年に景勝の側近・狩野秀治が病で倒れると、兼続は景勝の側近中の側近として内政や外交を一手に引き受けるようになります。佐渡征伐や小田原征伐など景勝の主要な戦に従軍し、1598年には出羽米沢(現在の山形県米沢市あたり)に30万石の所領を得るほど、主君はもちろん、豊臣秀吉からも信頼されていました。

豊臣秀吉の死後、景勝と兼続が新たな城の建設を模索すると、徳川家康は謀反行為だと詰問します。これに対し、兼続は反論の書状を書き記します。これが上杉征伐のきっかけとなったと言われる「直江状」です。1600年に関ヶ原の戦いが起こると、兼続は東軍勢力の伊達・最上軍と戦い、その武功を轟かせました。関ヶ原の戦いの後は上杉家存続の道を模索し、兼続の政治工作によって米沢30万石への減封という結果に収めました。

そして大坂冬の陣・夏の陣では徳川軍として参加し、武功を挙げています。1619年に景勝とともに江戸に上洛するものの、病を得て亡くなりました。直江兼続の人生は上杉家と共にあり、その才能はとても優れたものでると言えるでしょう。

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直江兼続の「愛の兜」とその由来について!


この直江兼続ですが、兜のデザインが洒落ていることでも有名な武将です。
では、兼続の兜とはどのようなものだったのでしょうか。

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それがこちら。この兜は通称「愛の兜」と呼ばれ、立物という装飾部分に「愛」の文字をあしらっているのが特徴です。そして兼続が兜に愛の文字を用いた理由は大きく分けて二つあります。一つは、上杉謙信が戦勝祈願をした愛宕神社にあやかり、「愛」の一文字を拝借したという説。

そしてもう一つは、「愛染明王」から拝借したという説です。
兼続は軍神としても名高い愛染明王を信仰していたと言われており、愛染明王の頭文字である「愛」を掲げたのではないかと考えられています。上杉謙信が毘沙門天から一字を拝借して旗印としたことにあやかったのかもしれませんね。

どちらの説にせよ、兜に掲げられた「愛」の一文字は、上杉家への忠誠や、戦に対する兼続の覚悟が見受けられる兜と言えるでしょう。山形県米沢市にある上杉神社には、直江兼続が所有したとされる「愛の兜」が現在も伝わっています。

直江兼続と上杉謙信の関係は?実子説の出どころは?


直江兼続は上杉景勝と関係が深い武将であることは前述のとおりです。
では、景勝の養父である上杉謙信とは、生前何かしらの関係があったのでしょうか。

残念ながら、兼続と謙信との間に関わりがあったという文献は残っていません。謙信は兼続が18歳のときに亡くなっていますし、兼続が上杉家の中で発言権を高めていくのは景勝が当主となってからのことなので、兼続と謙信の間に親密な交流があったとは考えにくいでしょう。

ただし、兼続は幼い時から景勝の近習をつとめていることから、謙信と顔見知り程度の関係であった可能性はあるのではないでしょうか。「愛の兜」のエピソードからすると、兼続にとって謙信は憧れの存在であったと考えることもできます。また、謙信は男色家であったという説もあり、兼続もその相手の一人であったのではないかという説もありますが、これも推測の域をでません。

この他には、「花の慶次」の作者として知られる原哲夫さんが書かれた「義風堂々」という漫画で、直江兼続は実は上杉謙信の実子だった!という設定で登場します。この設定の信憑性はほぼ無いと思われますが、こうしたエピソードが作り出される程、上杉謙信という存在は兼続の人生に大きな影響を与えたと言えるかもしれませんね。

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この記事のまとめ


ここでは直江兼続がどんな武将だったのかを、愛の兜や上杉謙信との関係にも触れながらご紹介しました。

直江兼続は上杉家に一生を捧げた、忠義にあふれる武将であったと言えます。上杉家と言えば上杉謙信のイメージがとても強いですが、謙信の死後も上杉家が発展し、その家名を現代まで存続できている背景には、兼続の大きな貢献があったことを見逃してはならないでしょう。

なお、以下の記事では兼続の主君である上杉景勝について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:上杉景勝の人物像や上杉謙信との関係とは。子供はいたの?