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平安時代の女性作家で、世界でいちばん古い長編小説のひとつといわれる『源氏物語』の作者として知られる紫式部。

一体どんな人だったのでしょうか。このページでは、紫式部の年表や源氏物語について、小学生の方でもわかるようにご紹介します。
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紫式部ってどんな人?小学生向けにわかりやすく解説!


まずは紫式部がどんな人だったのかを、小学生向けにわかりやすくご紹介します。

紫式部が生きたのは10世紀の終わりから11世紀の初めごろ。平安時代の真ん中の時期なのですが、紫式部が生まれた年や亡くなった年は正確にはわかっていません。


紫式部の父・藤原為時は学者として有名な人で、紫式部も子どものころから勉強好きでした。

父が紫式部の兄に漢文を教えていたところ、紫式部のほうがすぐに覚えてしまい「この子が男の子だったら将来、立派な学者になるのに……」と残念がったそうです。

その一方で、紫式部はとてもシャイな性格だったようです。漢文の知識があることを周囲には見せず「一」をいう漢字すら書けないふりをしてたのだとか。

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紫式部は結婚、出産を経験し、夫に先立たれています。『源氏物語』はこのころから書き始められたと考えられています。この物語の評判が道長の耳に入り、道長の娘で一条天皇の妃である彰子に女房(身の回りの世話をする人)として仕えることになりました。

宮中では一条天皇をはじめとする人々が、執筆途中の『源氏物語』を読んでいたようで、道長も紫式部の部屋を訪ねては「続きを早く読みたい!」とリクエストをしていました。


やがて『源氏物語』は約10年の歳月をかけ、宮仕えをしている最中に完成したようです。

その後しばらくして、紫式部は宮中を去ります。式部のその後の足取りはよくわかっていませんが、娘で恋多き女として有名な大弐三位が、紫式部のあとを継いで彰子に仕えています。

※参照:紫式部の父親の藤原為時とは。夫や子供の大弐三位も解説!

紫式部の年表を小学生向けにわかりやすく解説!


ここでは紫式部の年表を、小学生向けに簡単にご紹介します。
生まれた年も亡くなった年もわからないのですが、40代で亡くなったようです。

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・970年ごろ
学者・藤原為時の娘として生まれる。


・998年ごろ
藤原宣孝と結婚。宣孝とは親子ほど年の差があった。


・999年ごろ
藤原賢子(のちの歌人・大弐三位)を産む。


・1001年
夫の藤原宣孝がなくなる。
このころから『源氏物語』を書き始めたと言われている。


・1005年ごろ
一条天皇の妃である彰子(藤原道長の娘)に仕え始める。


・1010年ごろ
このころ『源氏物語』が完成したとされている。


・1012年ごろ
彰子のもとを去る。


・1014年ごろ
このころ、紫式部は亡くなったと言われている。

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できごとが起こった年も推測のものばかりですね。

また、「紫式部」という名前ですが、実は本名ではありません。作成した物語『源氏物語』の登場人物である「紫の上」にちなんで、この名前で呼ばれるようになったそうです。

平安時代は、天皇の妃や子どものような女性でなければ、本名も生まれた年や亡くなった年もわからないことが多いのです。

『源氏物語』を小学生向けにわかりやすく解説!


最後に、『源氏物語』を小学生の方に向けてご紹介します。

『源氏物語』はとても長い小説で、400字詰原稿用紙で約2400枚という今の小説家もビックリする位の分量がありました。全部で54の章に分かれ、それぞれの章ごとに「桐壷」「若紫」といった名前が付けられています。

主人公は天皇の皇子として生まれた光源氏(ひかるげんじ)です。母が低い身分だったため、宮中での跡継ぎ争いにはとても耐えられないだろうという天皇の配慮もあり、皇族の地位を離れます。さまざまな女性との恋愛模様、友人たちとの語らいや出世競争が描かれます。物語は光源氏とその子、孫の代まで70年間という長い時間におよび、登場人物は約500人。約800首の和歌が紹介されています。


紫式部は彰子に仕える前から『源氏物語』を書き始めていて、すでに貴族の間で評判になっていたようです。藤原道長は「一条天皇を娘・彰子のもとにひきつけるために、この物語は仕える!」と思ったのでしょうか。紫式部を娘の世話係&家庭教師にスカウトしたのです。

道長のねらいは当たったようで、歌や漢文、物語を読むのが好きな一条天皇は『源氏物語』読みたさに彰子の部屋に来ることが多くなったそう。また、紫式部が彰子の家庭教師になったことで、彰子も一条天皇の相手としてふさわしい教養を身に着けることができたのです。


宮中で仕事をするようになり、紫式部の創作意欲はますます高まったでしょう。自分が実際に見たり聞いたりしたことを、そのまま物語に生かせるのですから。

それに、藤原道長からは、執筆のための紙や筆をたくさん与えられたはず。
当時、紙はとても貴重品だったので、道長からの援助がなければ、原稿用紙2400枚という大作を完成させるのは難しかったと思います。

※参照:藤原道長と源氏物語、栄花物語、御堂関白記の関係をご紹介。

この記事のまとめ


紫式部ってどんな人?」というテーマで、年表や源氏物語について小学生の方にもわかりやすいようにご紹介しました。

紫式部の生涯は、あまり分かっていません。また、なぜ『源氏物語』を書こうと思ったのかも分かっておらず、その研究はなかなか進んでいないのです。

さらに、紫式部は本当に『源氏物語』を書いたのかという疑問まで出ています。
今の本のように、『源氏物語』の表紙に作者名が書いてあるわけではありません。そもそも『源氏物語』は紫式部が書いたものを、貴族が書き写し、それをまた誰かが書き写し……というかたちで現代まで残ってきた作品なのです。
この先、こうした謎を解く手がかりになるようなものが見つかると、教科書の内容も変わるかもしれませんね。


なお、以下の記事では紫式部と並ぶ平安時代の女性作家である清少納言について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:清少納言ってどんな人?年表や枕草子を小学生向けに簡単に解説