賤ヶ岳の七本槍の一人として知られる糟屋武則。一体どのような武将だったのでしょうか。
同じ七本槍のメンバーである加藤清正や福島正則と比べると知名度が劣るだけに、晩年についても定かではないようです。
今回は、糟屋武則の人物像に迫ると共に、主君である豊臣秀吉や秀吉の軍師である黒田官兵衛との関係についても解説します。
糟屋武則とはどのような武将だったのか?
糟屋武則の名が歴史上出て来るのは天正5年に始まる羽柴(豊臣)秀吉の中国攻めからで、以降秀吉の家来として生きることになります。
本能寺の変の後、秀吉による中国大返しと山崎の合戦に参加し、大徳寺で行われた信長の葬儀にも陪臣(信長の家臣である秀吉の家来)として参列しています。
秀吉の家臣でこのような記録が残っている人物は少ないので、当時の武則の秀吉家臣団における地位は高かったのかもしれません。
そんな糟屋武則がもっとも華々しく描かれるのが、天正11年の賤ヶ岳の戦いです。
この戦いで敵方・佐久間盛政の勇将・宿屋七左衛門に挑んだ武則は、既に七左衛門と槍を合わせていた桜井佐吉を助けて戦い、七左衛門を付き伏せました。武則は、この戦功により、いわゆる賤ヶ岳七本槍の一人となり、播磨・加古郡2000石、河内・河内郡1000石合わせて3000石を拝領しています。
※参照:賤ヶ岳の七本槍のメンバーまとめ!その後大名になれた者は?
その後も武則は小牧・長久手の戦い(天正10年)、九州征伐(天正15年)、小田原征伐(天正18年)、朝鮮出兵(文禄の役)などに出兵しています。
また、武則は槍働きのみの人では決してなく、天正14年に方広寺大仏の作事奉行を務め従五位内膳正に任ぜられたほか、天正16年4月の後陽成天皇の聚楽第行幸にも参列しています。天正19年には近江国検地奉行として増田長盛らと検地を行っています。
秀吉死去の折には、形見分けとして黄金10枚を拝領し、関ケ原の合戦では賤ヶ岳七本槍の中で唯一西軍に加わりました。
緒戦の伏見城攻撃に参加したほか、関ケ原本戦でも宇喜多秀家隊に属して戦ったとされています(異説あり)。戦後、所領没収・改易となっています。
こうした経歴を見ていると糟屋武則という人は、槍での実績を持ちつつも、豊臣家にあって文治派に属し、几帳面で律儀な性格であったろうと考えられます。秀吉の信任が厚く、武則自身もそのことをよく知っており、「己を知る者のためにのみ死す」という心境で仕えていたのではないでしょうか。
糟屋武則が秀吉に仕えた経緯について解説!
それでは、糟屋武則はどのような経緯で秀吉に仕えたのでしょうか。
糟屋氏は藤原氏を祖としていて、かつて相模・糟屋の地に土着したことから糟屋姓を名乗ったとされています。武則の時代には播州三木城を本拠地とする別所氏の家臣となっていました。
秀吉は、播州・御着の黒田官兵衛とその主君・小寺政職を通して、播磨を中国攻めの拠点とするべく、天正6年にまず播州勢力を結集するための評定を行います(加古川評定)。
播州・三木城の勇、別所氏の動向が注目されたこの評定において、別所氏は当主の長治ではなく叔父の賀相が参加しますが、信長の苛烈な性格や司令官である秀吉の出自を厭うためか、別所は席を蹴って離反を表明します。
これに伴い、糟屋武則も当主で兄である朝正とともに三木城入りを果たしますが、黒田官兵衛の説得を受け退去、加古川に戻りました。
その後は、黒田官兵衛の推薦もあり、秀吉の小姓として仕えるようになりました。また、一連の三木城攻防戦の最中に兄・朝正が戦死したために家督を継ぎ、糟屋家の当主となっています。
糟屋武則が秀吉に仕えるようになったのは、秀吉の中国征伐時代の頃だと考えてよさそうですね。
糟屋武則と黒田官兵衛の関係は同じ播磨繋がり?
戦国きっての名軍師として「戦国の両兵衛」と呼ばれた竹中半兵衛と黒田官兵衛は、丁度この播州攻略の時期を引き継ぎ時期と定めていたかのように、天正7年に竹中半兵衛が病没、跡を黒田官兵衛が引き継ぎます。
黒田官兵衛は、播磨・御着城城主の小寺政職に仕えた家老・黒田職隆の長男として天文15年に生まれました。後、黒田家の家督を継いで小寺政職の姪と結婚して小寺家の家老となり、対織田外交を一手に負い、織田との同盟に成功します。
糟屋武則の母は小寺政職の妹であり、初め糟屋朝貞に嫁して長男の朝正が生まれました。
その後離縁し、志村氏に嫁し武則が生まれますが、夫とは死別したため武則を兄である糟屋朝正に養弟として預けます。
つまり小寺政職を中心にみた場合、糟屋武則は甥であり、黒田官兵衛は姪の夫ということになります。こうした縁もあって、官兵衛は武則を秀吉の小姓として推薦したのでしょう。秀吉としても早くから官兵衛の軍師としての才能を認めていたわけですから、断る理由がありません。むしろ積極的にこれを用いたというべきでしょう。
糟屋武則の関ケ原本戦以後の消息は、はっきりしたことは分かりません。一度改易になったことは間違いないようですが、幕府の旗本になったり、あるいは加賀の前田家に仕えたなど、その後の再興などにも諸説があります。
もし糟屋武則が、それまでの行跡どおり律儀で几帳面な人間だったとしたら、関ケ原での動向について、黒田官兵衛の意向が働いた可能性もあるのではないでしょうか。黒田官兵衛もまた、関ケ原の合戦の折には中津で旗を揚げており、東軍・西軍の勢力が拮抗して長滞陣となることを見越し、いわゆる「天下三分」を狙ったとも言われています。
関ケ原本戦がわずか1日で決着してしまったため、官兵衛の思惑は崩れました。その知らせを官兵衛はどう受け取ったのか、糟屋武則はどのように戦後を生きたのか、謎としか言いようがありません。
この記事のまとめ
糟屋武則の人物像について、秀吉や黒田官兵衛との関係を踏まえながらご紹介しました。
晩年については消息が分かっていないとは言え、豊臣政権下における武則の履歴は比較的明らかになっていると感じます。陪臣として信長の葬儀に参列した辺り、現在の我々が思っている以上に、武則は秀吉に重用されていたのではないでしょうか。
また、糟屋武則は豊臣秀次の失脚後、秀吉の命令で秀次を伏見城に軟禁したという記録が残っています。この秀次の能力については以下の記事で検証しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:豊臣秀次ホントに有能?生きていれば豊臣政権はどうなった?