豪華絢爛なお神輿に、湧き上がる歓声、長い長い行列・・・
春も終わりに差し掛かると、お祭りのシーズンがやってきますね。
東京では5月の神田祭が非常に有名です。
京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に「日本の三大祭り」の一つにも数えられています。
この神田祭ですが、あることがきっかけで江戸幕府に敬われ、盛代化するも、時代の変化に伴いその姿を変えてきました。
いったいどのような変化があったのでしょう?
この記事では、神田祭の歴史について、その起源や戦前・戦後それぞれの祭の様子について詳しく解説したいと思います!
神田祭の歴史は江戸時代から! その起源とは?
神田祭の起源については、記録がほとんど残っておらず詳細は不明ですが、大祭として行われるようになったのは江戸時代以降のことです。
江戸時代の文献「神田大明神御由緒書」によると、江戸幕府が開かれる前の慶長5年(1600年)に徳川家康が上杉景勝との戦いに臨んだ時や関ヶ原の合戦の時にも、神田大明神に戦勝祈祷を命じたそうです。
すると、9月15日の祭礼の日に見事に天下統一を果たしました。
そのため家康は神田祭を非常に大切にするようになり、徳川家縁起の祭として、江戸時代を通して盛大に行われるようになりました。
名前もなんと「天下祭」と呼ばれており、このお祭りがいかに江戸の人々に愛されていたのかがわかります。
神田明神が、あの有名な関ヶ原の戦いにもゆかりがあったなんて、思いましませんでした!
明治から戦前までの神田祭の詳細について
江戸時代の神田祭は、華やかな山車(だし)が中心でした。
この山車(だし)ですが、飾り物をしたり大太鼓を積んだりして引き出す車のことです。
当時は、なんと40本前後もの山車が行列をなし、祭りを盛り上げていたそうですが、明治時代になり近代化が進む一環として電線が引かれたため、高さ8mにもおよぶ山車はほとんど出されなくなりました。
それに代わって登場したのが神輿です。
各町会が競って神輿をつくり、途中、戦争で中止もありましたが、江戸時代から受け継がれた心意気を神輿で表し、宮入り(神社の境内に担ぎ入れること)も行われるようになりました。
また、神田祭はもともと9月に行われた行事だったのですが、この時代から5月に行われるようになります。
開催月が変わった理由としては、台風や疫病が発生する9月を避けたためと言われています。
大正時代になると、1923年の関東大震災によって、神田明神の社殿が消失。これが原因で神田祭は当分の間行われなくなります。1934年になると耐震、耐火構造をした社殿がが再び建てられたのですが、この火に強い作りのお陰と言うべきか、戦時の東京大空襲において、神田明神の社殿は難を逃れる事に成功しました。
戦後から現在にかけての神田祭の様子は?
その後、神田祭は1952年から再開。今に至るまで毎年5月に行われています。
平成に入ると、歴史を思い返そうという声があがり、江戸時代の「附け祭」(つけまつり)が復活します。
附け祭とは、祭礼行事の一つで、能、浄瑠璃、歌舞伎、舞踊、お囃子や音楽などを取り入れた、華やかな踊り舞台や山車などが特徴で、当時大変な人気でした。
この山車が復元され、「相馬野馬追(そうまのうまおい」」の騎馬武者など、新たなキャラクターも行列に加わりました。
また、江戸開府400年にあたる2005年には、寛政3年(1791年)の祭礼に出されたクジラの作り物がインフレータブルバルーンで再現されるなど、様々な取り組みが行われています。
2015年の神田祭では、現在も人気が続いている「ラブライブ」とのコラボ企画が行われるなど、伝統と流行のバランスをいい意味で取っているお祭りとして、神田祭は今後もも賑わい続けることでしょう。
長い歴史をもつ神田祭は、時代の流れとともに姿は変わっても、その心意気が変わる事はないと言えそうですね。
この記事のまとめ
神田祭は、徳川家康の天下統一に貢献したとして、江戸時代に盛代化しました。
このころ祭の中心は山車でした。
しかし明治になり近代化が進んで電線が引かれると、高さのある山車は運行が難しくなり代わって神輿が登場しました。また平成に入ると、歴史回顧の考えから山車が復元され、新たなキャラクターも行列に加わりました。
神田祭の姿は変わっても、その心意気が変わることはないと言えるでしょう。
以上、神田祭の歴史に関する解説でした!