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農民出身ながら天下統一という大偉業を果たした豊臣秀吉。その家系図を紐解くと、織田信長や徳川家康といった同世代の武将と繋がりがある事が分かります。

また、秀吉の子飼いとして活躍した加藤清正と福島正則の2人も、その家系図に含まれている事についてはご存知でしょうか…?

今回「歴史マニア」を自称する私が、豊臣秀吉の家系図を簡単にわかりやすく解説します。
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豊臣秀吉の家系図をわかりやすく解説!


まずは豊臣秀吉の家系図の基本的な部分を簡単にご紹介します。

img_0028 豊臣秀吉の父親は「木下彌右衛門」で母親は「なか」(大政所)です。
父親の木下彌右衛門は農民だったと言われていますから、やはり秀吉は大出世をしたのが分かりますね。父親の彌右衛門は秀吉が7才の時に死去し、継父として竹阿弥がやってきました。そして竹阿弥と折り合いが悪かった秀吉は家を飛び出し諸国を放浪することになります。

貧しい家庭で育ち、実の子供がいなかった秀吉は、親戚縁者を非常に大切にしています。異父弟の「豊臣秀長」は秀吉の右腕として、秀吉の姉「智」の長男で養子の一人に迎えた後の関白「豊臣秀次」は秀吉の跡継ぎとして、豊臣家中で重要な役割を担っています。

※参照:豊臣秀長の妻や子供について解説。養子の豊臣秀保とは?

やはり戦国の世とはいえ、貧しい頃から苦楽を共にしてきた家族は、何物にも代えがたい頼りになる存在なのですね。

そして秀吉の正室は「寧々」(北政所)です。無類の女好きだった秀吉ですが、寧々の事は非常に大切にしていました。二人の間に子供が産まれていたら、豊臣政権はどのような形になったのか興味深いですね。

そんな秀吉にも、晩年に側室として迎えた「茶々」(淀殿)との間に待望の息子が誕生します。

長男の鶴松は残念ながら早世してしまいますが、その後産まれた次男の「豊臣秀頼」に、秀吉は溺愛ともいえる愛情を注ぐのでした。やはり天下人も実の息子は可愛くて仕方なかったのでしょうね。しかし秀吉は秀頼の成長を見届けることなく没してしまいます。

天下統一を果たし全てを手に入れた秀吉ですが、父親としての幸せには恵まれず、その後の豊臣家の行く末を見ると家族関係の難しさが垣間見えますね。

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家系図から見る、信長、家康、そして秀吉の関係とは?


次に豊臣秀吉の主君である織田信長と、秀吉の盟友でもありライバルでもある徳川家康との関係を、家系図から簡単に見てみましょう。

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この家系図を見て感じたのは、信長、家康、そして秀吉を繋ぐキーパーソンとして挙げられるのは、信長の妹である「お市の方」の存在が重要だと言うことです。お市の方の娘である「茶々」(淀殿)は秀吉の側室で、嫡男の秀頼の母親です。そして同じくお市の方の娘「お江」は、家康の嫡男で徳川幕府二代将軍秀忠の正室ですね。さらにその秀忠とお江との間に生まれた「千姫」は秀頼の元に嫁いでいます。

また、ここには書かれていませんが、秀吉の妹である朝日姫は徳川家康の継室にもなっています。また、秀吉の側室の1人には信長の弟、織田信包の娘である姫路殿という女性がいます。


そして注目すべきは、秀忠の嫡男である江戸幕府三代将軍徳川家光でしょう。

家光はなんと信長が大伯父、秀吉が伯父、祖父が家康という、親戚に戦国の三英傑の全てがいる人物なのです。徳川幕府の泰平の世の基礎を築いた家光は、家系図で見るとまさに彼しか果たせない役割を担って生まれてきたと言えるのかもしれません。


徳川幕府が約260年もの長い政権を全うできたのも秀吉のお陰・・・
なんて事をつい考えてしまいました(笑)

※参照:徳川家康の家系図を簡単にわかりやすい形で解説!

家系図から見た秀吉と加藤清正、福島正則の関係とは?


ここまでは秀吉の家系図について、その家族や信長や家康との関係に着目して見てきましたが、最後に秀吉の天下統一に大きな役割を果たした二人の人物に焦点を当ててみます。

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秀吉は側室の茶々(淀殿)との間に子供が生まれるまで子宝に恵まれませんでした。そこで秀吉は生母である「なか」の親戚筋から「加藤清正」を、「なか」の妹の子「福島正則」を見出し、天下統一を果たす際に大いに頼りにしたのです。

秀吉は長らく子ができなかったことから非常に家族、親戚を大事にしていて加藤清正と福島正則を実の子のように目をかけ、二人ともその秀吉の期待に応え、豊臣家中で猛将として名を馳せました。この二人の存在なくして秀吉の天下統一は夢となっていたでしょう。

また二人は幼い頃から秀吉の薫陶を受け、天下人を間近に感じてきたこともあり、単に武力に秀でた猪武者ではなく、任された領国では政治家としても才能を発揮します。さらに秀吉は築城の名手として有名ですが、加藤清正も福島正則も後世に残る名城を建設し、秀吉の人物見る目が確かだったことをうかがわせますね!

※参照:福島正則と加藤清正の違いについて5点ほどまとめてみた

この記事のまとめ


豊臣秀吉の家系図を簡単にわかりやすくご紹介しました。

秀吉の家系図を見ると、信長や家康に比べその親戚の数が少ないと感じます。その一方で、親戚から加藤清正や福島正則ら見どころのある若者を登用し、そして織田信長・徳川家康と家系図においても間接的に繋がっている事が分かりますね。

秀吉というと貧しい身から自身の力で成り上がったイメージが強いですが、家系図を紐解くと実際は周りを活かすのが上手だったので天下統一できたのではないかと感じました。秀吉の血は絶えてしまいましたが、いずれにせよ天下に影響力を残す大人物だったのには疑いの余地はない事でしょう。

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