たくさんの側室を寵愛しながらも子宝に恵まれなかった天下人・豊臣秀吉。
57歳にしてようやく豊臣秀頼を授かるものの、その秀頼は大坂の陣で最後を迎えることに。

また、秀頼の子供、国松は。豊臣家の血筋を引くがゆえに徳川方に捕まり、その血筋を絶つ為にわずか8才で処刑されてしまいます。

では、豊臣秀吉の子孫はもう残っていないのでしょうか。

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豊臣秀吉の子孫はいたのか?


豊臣秀吉と言えば、秀頼が生まれる以前にも石松丸秀勝、そして鶴松という二人の子が生まれてはいますが、どちらも若くして亡くなっています。

また、唯一成人した秀頼は側室との間に国松奈阿姫という子供たちを設けているのですが、このうち国松は豊臣の残党狩りの中で捕まり、お付きの家臣とともに、京都で市中引き回しの上、六条河原で斬首されてしまいました。
戦国時代にはよくある事だとはいえ、市中を引き回してさらし者にしたあと、河原で公開処刑!!をするわけですから、想像を絶する残酷さですよね~。

一方の奈阿姫は秀頼の正室で、実家の徳川家に戻っていた千姫が幕府に奈阿姫の命を助けてくれるよう頼み込み、なんとか奈阿姫は処刑を免れ、出家して俗世を離れます。
千姫も秀頼の側室の生んだ子とはいえ、何の罪もない幼い子どもが無惨に殺されるのをとても見殺しにはできなかったのでしょうね。

少なくとも、これで豊臣秀吉の血を受け継ぐ男子はいなくなり、彼の子孫は絶えたという事になります。

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国松は木下延由となって生き延びた!?


ところが、実は「国松生存説」というのがあるんですよね〜。

それは国松が九州・薩摩に落ち延びて島津氏にかくまわれた後に、豊後(今の大分県)の日出藩の藩主である木下延俊の四男・木下延由として生きた、というもの。


木下家は秀吉の正室・ねねの実家になるので国松をかくまうのは筋の通る話なんですが、、、
実際には島津氏は大阪の陣には参陣していないので、大阪から国松を連れて地元の薩摩に戻る、というのは無理があるんですよね。


ではこの生存説がまったくデタラメかというとそうでもなくて、日出藩主・木下家には「国松は薩摩に落ち延びた」という一子相伝の言い伝えがあると、19代当主の木下崇俊氏が語っているそうなのです。

また、その言い伝えによると、木下延俊が大阪の陣のときに陣地を構えていた備中島には大阪城につながる抜け道があって、その抜け道を使って国松は真田信繁の子の真田幸昌とともに逃げて薩摩に落ち延びたとか。

※参照:真田大助こと真田幸昌の生涯について。子孫や墓所はどこ?


このもの凄いドラマチックな逃亡劇ののち、日出藩に身を寄せ、木下延俊の四男となり、延俊の死後、領地を分け与えられて立石領主・木下延由となった、というものなんです。

でも一子相伝とはいえ、結局言い伝えじゃあアテならないな〜、何か証拠がなくっちゃ、、、と思うとあるんですよね〜、証拠が、、、


それは木下延由の没後に作られた位牌!
この位牌のウラ側に「木下縫殿助 豊臣延由」という文字が刻まれていたのだそうです。


また、証拠としてもう1つ、木下延由は四男にも関わらず、父・木下延俊から日出藩領3万石の中から立石領5千石を分け与えられています。

四男が3万石のうち立石領5千石の領主になるのも異例のことだし、また木下延由は幕府から交代寄合という参勤交代を義務付けられた上級旗本に任じられています。この立石領の木下家は幕末まで続き、維新後も家系は明治まで続いています。そして、どうやら幕府も隠密の調べによって、木下延由がじつは国松であると知っていながら、わざと素知らぬフリをしていたのでは?とも言われています。


そんなこんなで、木下家で厚遇を受けていたとはいえ・・・実情を想像してみると木下家の四男になる、といっても国松は当時もう8才になっていたワケで、木下家の他の子ども達にとっては、突然やってきた扱いの難しい弟って感じで微妙な距離感はあったんだろうな〜、と推測してしまいます。

弟だからといってタメ口をきくわけにもいかず、他の兄弟たちとは距離をおいて育てられて、待遇は良いけど厄介者?みたいな感じもあったのかも、、、


また、立石領五千石を受け継いだ木下延由のその後は、他の兄弟たちからは疎遠にされたとかいう話しもあります。

兄弟たちにしてみれば、面白くなかったのではないかなぁ〜。
生き延びたとはいえ、両親も兄弟もなく、親戚に身を寄せて暮らす毎日。

国松自身は孤独な少年として過ごしていたのかもしれませんね。


でも国松が過ごした大分・日出藩の自然はとても素晴らしいんです。
いまも残る日出城趾公園はこんな感じ、、、

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※参照:日出城址 | ひじナビ


城からの眺望は抜群ですよね〜。
この大らかな景観に、国松の心もずいぶん癒されていたのではないかなと思いますね。

淀殿に育てられた豊臣完子とは?


「豊臣秀吉の子孫」についてはこんな感じなのですが、実は「豊臣家の血筋」を引いている人物が一人、江戸時代を生き抜いて現代にまで続いています。


それが秀吉の姉「とも(日秀尼)」の孫・豊臣完子(とよとみのさだこ)です。
父親は豊臣秀勝、そして母は後に徳川秀忠の正室となる江にあたります。

※参照:徳川秀忠の妻について。江との夫婦仲や側室の存在は?


完子の父・豊臣秀勝の死後、未亡人となった母・お江は今度は秀忠に嫁ぐことになり、幼い完子は母の姉・淀殿のもとに預けられます。
そして完子は大坂城で豊臣家の姫君として大切に育てられました。


1604年6月3日、完子は公卿の最上位である名門九条家に嫁ぎ、九条忠栄の妻となります。この忠栄はのちに関白に任じられる人物です。この輿入れについては淀殿が万事支度を整え、その贅を尽くした華やかさで京の人々を驚かせたとか、、、

それは興正寺の夫人や娘たちが「九条家嫁娶見物」するほどであったと記録に残るほど。
この嫁入り行列の絵巻ものでも残っていたら、見たかったなぁ〜。


また、この夫妻のために、義弟の豊臣秀頼の名義で豪華な九条新邸も建設されています。

淀殿にとってこの2人の結婚は、天下人・秀吉亡き後も「武家の頂点は豊臣家」であり、その豊臣家と公家の最上位・九条家との婚姻、という事を世間に認めさせるパフォーマンスでもあったのでしょうね。


そして、この結婚の後まもなくして豊臣家が滅亡すると、完子は実の母・江の夫・徳川秀忠の養女となります。

これは実家が豊臣家から徳川家に移ったというようなことで、相変わらず完子の実家は武家の頂点・徳川家、嫁ぎ先は公家の最上位・九条家というセレブとかいう言葉では言い表せないくらいの政界に影響力をもつ立場にいつづけることになります。

完子は67才の天寿をまっとうするまで、九条家において公家と武家との仲介役のような役目を果たすかたわら子どもにも恵まれ、血筋は脈々と続き、完子の子孫が九条家から、大正天皇の皇后として天皇家に嫁ぎ、昭和天皇を生むことになります。

ですから現在の天皇陛下にも豊臣と浅井、そして織田の血がほんの少しづつですが受け継がれていることになるワケで、そう考えるとなんだか壮大な歴史ロマンを感じますね。

※参照:藤原道長の子孫は現代にもいる?五摂家とは?

この記事のまとめ


豊臣秀吉の子孫は、息子・秀頼と側室との間にできた男の子・国松、女の子・奈阿姫がですが、国松は斬首、奈阿姫は出家し、血筋は途絶えたとされています。

一方で国松生存説もあり、それは日出藩主・木下延俊の四男・木下延由として生きた、というもので、木下家に伝わる言い伝えや、位牌に刻まれた名前などから事実かもしれないと言われています。

また数少ない豊臣の血筋を受け継ぐ女性である豊臣完子は、公家の最上位の九条家に嫁ぎ、武家と公家との仲介役を果たしつつ、その子孫に血筋は受け継がれ、九条家の女性が大正天皇に嫁いだことから、現在の天皇陛下まで豊臣、浅井、織田の血筋が受け継がれています。


豊臣秀吉、という身ひとつで天下人まで登りつめた超人も、子孫を増やすことだけは思うままになりませんでした。もし、秀吉がもっと沢山の子孫を残していたなら、没後の勢力争いもまったく違う展開になっていたはず、、、

豊臣は徳川に滅ぼされたのではなく、自滅したとも言えるのかもしれませんね。

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