親の跡を継ぐことって簡単ではないですよね。
ましてやその親が偉大であればあるほど、比較されてしまうし・・・。

この「偉大」という言葉が当てはまる人物の1人である豊臣秀吉は、誰もが認める才覚者で、そしてある意味横暴者だったとも言えます。

その秀吉に翻弄され数奇な運命をたどった男、秀吉の甥であり養子となった豊臣秀次の「4人の父親」をはじめ、実の母親およびその子孫の有無に迫ってみたいと思います。

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豊臣秀次の「4人の父」とは?


豊臣秀次には、実の父親である弥助(三好吉房)という人物の他に、3人の養父がいた事で知られています。

・宮部継潤
・三好康長
・豊臣秀吉


要するに、秀次は幼少期から様々な武将のもとへ養子として送り込まれた事になります。


まず、1572年の織田信長の浅井攻めを機に、秀次は当時浅野家に仕えていた宮部継潤の人質となり、そのまま彼の養子となっています。これがなんと4歳の時。これは秀吉が宮部継潤を調略するため、彼の安全を保証するため秀次を人質として送り込んだ事がきっかけでした。しかしその2年後、秀次は宮部継潤との養子縁組を解消しています。

その後、秀次は長宗我部氏に対抗するため三好康長に養子として送りこまれています。秀次が三好康長の養子になった時期は明らかになっていないようですが、1575〜1582年のいずれかではあったようです。その後、養父である三好康長が本能寺の変の後に行方不明になってしまい、秀次は一時期、「三好信吉」と名乗り、三好家の家臣団を率いていた時期がありました。ちなみに秀次の実の父親である弥助も、この頃から「三好吉房」と名乗ったと言われています。

この弥助(三好吉房)という人物ですが、出自などははっきりしていませんが農民だったとも言われています。あまり才覚のある男ではなかったためか、20歳前の秀次にさえ「頼りない」と言わしめております。秀次が切腹した後は、讃岐国に流罪となり、秀吉の死後京都に戻り仏に仕えて1612年にその生涯を終えます。義理の弟である秀吉に対して、相当な憎しみを抱き、仏にすがるしかなかったのでしょう。

また、秀次が秀吉の養子になった時期も明確ではないようです。一説では秀吉と淀殿の実子である鶴松が亡くなった1591年だと言われており、少なくともこの時期に秀次が秀吉の後継者として扱われていた事は確実だとされています。

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豊臣秀次の母で秀吉の姉「日秀尼」とは?


続いて、秀次の母で秀吉の姉である「日秀尼」についてご紹介します。
「日秀尼」とは、息子である秀次が切腹した1年後に出家してから名乗った法名で、本名を智(とも)と言いました。日秀尼は弥助(三好吉房)に嫁ぎ、秀次の他に徳川秀忠の正室として知られる江の2番目の夫である秀勝、秀吉の弟、秀長の養子となった秀保という3人の息子を産みました。

しかし、この息子たちは全て若くして亡くなっています。
1595年には秀次と秀保が亡くなっており、その3年前の92年には秀勝が朝鮮出兵中に病死しています。日秀尼の悲しみは言葉に表せないほどのものだったでしょう。

日秀尼は秀吉、家康の死後も生き延び、1625年に92歳で亡くなりました。

なお、次男の秀勝は江との間に娘である豊臣完子を産んでいるのですが、彼女は後に九条家に嫁ぎ、日秀尼の血筋を現代にまで伝えています。現在の天皇陛下も豊臣完子の血を受け継いでいるので、日秀尼は皇族のご先祖様の1人に当たるという見方も出来るんですよね。

豊臣秀次の血を引く子孫はいるのか?


父母や弟の秀勝の血が現在でも受け継がれている事は分かりましたが、では、秀次の血を引く子孫はいるのでしょうか。

秀次の切腹後、彼の子供たちは秀吉によって男女問わず処刑されています。そのため秀次の血は受け継がれているかというと…残念ながらわかりません。

ただ、秀吉による処刑から難を免れた者として、真田信繁(幸村)の側室となった隆清院がいます。隆清院は信繁の3男、三好幸信と5女である御田姫を産んでおり、御田姫は後に亀田藩の岩城家の藩主に嫁ぎ、3代目の藩主である岩城重隆を出産しています。
ただし岩城家は他家から養子を迎えているので、秀次の血はここで途絶えた事になります。また、三好幸信にも子供はいるのですが、その後どうなっているかは分かりませんでした。

その一方で、秀次には30人以上の側室がいたと言われているので、どこかで彼の血を受け継ぐ者がいてもおかしくはない気がします。

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この記事のまとめ


豊臣秀次は幼い頃から他家に養子に出されたため、実の父親である弥助(三好吉房)の他に、秀吉を含めた3人の養父がいる事になります。
また、秀次の母親である日秀尼(とも)は、彼を含めた3名の子供を産んでいて、次男である秀勝の娘を通して、その子孫を現代にまで伝えています。

一方、秀次の子孫の有無は不明ですが、30名にも及ぶ側室がいた以上、どこかでその血を受け継ぐ方がおられても不思議ではない気がしています。


秀次とその父母は、まさに「秀吉に翻弄された」という言葉がぴったり当てはまると思います。

運命には逆らえないのでしょうが、豊臣秀次という男に策が立てられる家臣(秀吉にとっての石田三成のような家臣)がいれば、彼の運命が変わっていたかもと思わずにはいられません。切腹などせずに身を引く方法があったのではないかと思うのです。


では、この豊臣秀次の能力ですが、具体的にはどのようなものだったのでしょうか。このテーマについて以下の記事で解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さい。

※参照:豊臣秀次ホントに有能?生きていれば豊臣政権はどうなった?