豊臣秀長と言えば、兄の秀吉を信長の家臣時代から支えた人物として知られています。時には兄による強引な政策を調整することで、その政治を巧みに治めていた事で知られています。
そんな豊臣秀長ですが、妻や子供はいたのでしょうか?
この記事では「豊臣秀長の家族」というテーマで、秀長の妻や子供、そして養子の豊臣秀保という人物についてご紹介したいと思います。
豊臣秀長の妻は尼さん!しかも46歳で結婚!?
まずは豊臣秀長の妻についてご紹介します。
秀長の妻は智雲院(ちうんいん)という人物です。
奈良県にある法興寺の尼さんだった智雲院に秀長がホレてしまったのが結婚のきっかけだったようで、彼女は1585〜86年に秀長に嫁いだと言われています。この時期は秀長が兄から大和国を与えられた時期に該当すしています。また、法興寺も当時からかなり有名なお寺だったので、領主として法興寺を訪れたところたまたま出会って・・・といった事だったのかもしれません。
その後、智雲院は秀長との間に1男2女を産んでおり、夫が1591年に亡くなった後は秀吉から寺領200石を寄進されたと言われています。
その後の智雲院は1622年に亡くなるまでふたたび法興寺の尼になったと言われています。
智雲院を妻にしたのも45〜46歳のとき(秀長は1540年生まれ)であり、結婚そのものが遅かったという印象を受けます。
尼さんにホレてしまうのですから、女性に興味がなかった訳ではないとは思うのですが…なぜここまで結婚が遅れたのかが気になる所です。
秀長の妻ですが、この智雲院と他に側室が1人いたという事しか伝わっていません。この側室は秀長の墓の隣に眠っている「養春院古仙慶寿大姉」という女性で、正式な名前はわかっていません。一説ではかつて織田信長の側室であったとも言われています。
豊臣秀長の3人の子供のその後は・・・
先述した通り、秀長と智雲院の間には1男2女の子供がいます。
長男の小一郎と長女の大善院、次女のおきくという名前が伝わっています。
このうち息子の小一郎は早世してしまい、長女の大善院は秀長の養子の豊臣秀保へ、次女のおきくは1595年に毛利秀元へ嫁いでいます。
大善院と豊臣秀保の間には子供が産まれなかったようで、秀保が1595年に亡くなった後の消息ははっきりと伝わっていません。
(一説では1604年に亡くなったとも)
大善院が産まれたのは1587年頃だと考えられているので、彼女はわずか8歳で未亡人になったという事になります。8歳の未亡人って…
また、毛利秀元のもとへ嫁いだ次女のおきくは1609年に亡くなっています。
秀元はその後、1613年に家康の養女である浄明院を継室としています。おきくの死後4年間結婚しなかった事を踏まえると、秀元はおきくの事を大切にしていたのかなと感じます。
また、こうした記録を見ると、秀長の子供は兄の秀吉の子供と同じように若くして亡くなっているのが分かりますね。
秀長の養子である豊臣秀保は「無双の悪人」だった!?
息子に先立たれた秀長が、養子として迎えたのが豊臣秀保(とよとみひでやす)です。
2021年に推理作家の獅子宮敏彦(ししぐう としひこ)さんが出版された「豊臣探偵奇譚」という小説では、秀保が主人公として描かれてますね。
秀保は1579年に生まれました。実の父は三好吉房、母親は秀長の姉であるとも(日秀尼)という人物です。この夫婦の間には秀保の他に羽柴秀勝、そしてあの関白・豊臣秀次という3人の子供を授かっているのですが、この3人の子供はいずれも弟の養子になっているのですね。
※参照:豊臣秀次の「4人の父親」とは?実の母親やその子孫について!
豊臣秀保は1591年、秀長の長女・大善院と結婚して秀長の養子となり、秀長の死後、その跡を継ぎ大和郡山城主となっています。
その際、秀長の重臣であった藤堂高虎と桑山重晴を後見人としており、名護屋城の普請や朝鮮出兵にも参加しています。
また、秀保は「豊臣一門」であったためか、その出世も著しいものでした。
1588年にはわずか9歳で侍従に任命されており、92年には父の跡を継いで中納言になっています。大名としての格は徳川家康の次に位置しており、兄の秀次が関白に就任した後は豊臣一門の筆頭でもありました。
他にも秀吉は朝鮮出兵の後に明を征服した後に秀保を日本の関白にするといった構想があったようで、この時期の豊臣政権で秀保がいかに重要な位置を占めていたのかが分かる気がします。
このように、豊臣一門の実力者としての階段を上り始めた秀保でしたが、1595年4月にわずか17歳で死去しています。秀保の死後、大和大納言といわれた豊臣秀長の家系は断絶しました。
一説では、秀保は「無双の悪人」と言われるほどの暴君だったようで、罪のない小姓や妊婦の命を次々と奪っていた悪逆非道の人物だったと言われています。個人的には、この4ヶ月後に切腹する実兄の秀次が「殺生関白」と呼ばれたように、後世の言われもない評価だとは思うのですが、こう言われる以上、秀保は何かしらの問題児だったのかもしれませんね。
いずれにせよ、秀保の早過ぎる死は、豊臣政権が弱体化する1つの原因だったのは間違いないと思います。
この記事のまとめ
今回は、豊臣秀長の家族というテーマで、妻の智雲院や3人の実の子供、そして養子の豊臣秀保についてご紹介しました。
このように、秀長は兄の秀吉と同じく後継者に恵まれず、甥の豊臣秀保と養子縁組をすることで大和豊臣家の家名を守ろうとしています。しかし、そんな秀長の願いも虚しく秀保も若くして亡くなっています。秀吉にしても秀長にしても天下に名を馳せた名将たちも名を継いでいくのには苦労が多いと実感せざるを得ませんね。
そんな秀長ですが、藤堂高虎や中井正清といった、築城に優れた人物を配下に召し抱えた事でも知られています。
以下の記事では「豊臣秀長ゆかりの城」というテーマを解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さい。
※参照:豊臣秀長ゆかりの城について解説。竹田城、郡山城、和歌山城