豊臣秀吉の天下統一を支えた人物として、豊臣秀次石田三成の2人は有名です。

秀次は秀吉の甥で秀吉の後継者とみなされていましたが、切腹という最後を迎えています。
一方の三成は、秀吉の小姓に登用されたのをきっかけに出世し、秀吉死後も豊臣家に仕える忠臣ぶりを発揮しています。共に秀吉と近しい間柄でありながら明暗が別れた豊臣秀次と石田三成ですが、どのような関係だったのでしょうか。秀次の切腹に三成は何か関係しているのでしょうか。

秀次の部下であった「若江八人衆」の行方にも焦点をあてながら考えてみましょう。

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秀次と石田三成には、何かしらの関係があったのか?


豊臣秀次と石田三成の関係ですが、二人が直接的関係にあったことを示す史料はあまり残っていません。蒲生氏郷死去後に画策された蒲生家の転封について、秀次と三成の間で対立が生じたという説がありますが、この説は藤田恒春氏の研究によって否定されています。

他に二人の関係を示すものとして、秀吉が主催した吉野の花見に秀次と三成が同席し、同じ宿に泊まったという記録が残っています。この花見は、後継者をめぐって悪化した秀吉と秀次の関係をとりもつためのものであったと言われています。つまり三成は、秀吉と秀次の仲を取り持つという目的のために秀次と同席・同宿したということですね。

詳しい史料が残らないということもあわせて鑑みると、秀次と三成の関係とは直接的なものではなく、あくまでも秀吉を介してのみ繋がっていたと考えるのが自然でしょう。

豊臣秀次の切腹に石田三成は関係していたのか?


文禄4年6月、豊臣秀次に謀反の疑いがかかります。
この時、調査から処分までを担当したのが石田三成でした。

三成は秀次が毛利輝元と独自に誓約を結んでいる旨を秀吉に報告します。この事実は、江戸時代以降の書物によって大幅に加筆され「秀次を疎んだ三成が讒言を行い、秀次を死に追いやった」というエピソードとして語られるようになります。

しかし、三成が秀次の切腹を企てたという正式な記録はなく、実際は作り話であると思われます。両者に個人的なつながりも少ないため、個人的な怨みなどから切腹を画策したとも考えられませんよね。

むしろ三成は、秀次を助けようと奔走しています。

次項で詳しく触れますが、秀次の腹心の部下であった「若江八人衆」の多くが三成の配下に下り、関ヶ原の戦いでは石田軍として奮戦・壮絶な最後を遂げたことを考えると、三成が秀次を助けようとしたという説の方が有力であると考えられます。

少なくとも、三成は秀次処分にあたり実務担当をしただけであり、三成が秀次の切腹を企てたというのは全くの憶測で、それほど秀次の切腹が不自然なものであったということの裏付けなのでしょう。

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豊臣秀次に仕えた「若江八人衆」のその後について解説!


豊臣秀次には「若江八人衆」と呼ばれる優秀な部下がいました。
メンバーは以下の8名です。

・大場土佐
・大山伯耆
・高野越中
・舞兵庫(前野忠康)
・牧野成里
・森九兵衛
・藤堂良政
・安井喜内


彼らはもともと、かつての秀次の養父であった三好康長に仕えていたとされています。秀次が三好康長の養子として送り込まれた際、秀吉がその家臣団の中から秀次直参に任命した有能な武将だったと言われています。

※参照:豊臣秀次の「4人の父親」とは?実の母親やその子孫について!


秀次の死後、八人衆のうち「大場土佐」「大山伯耆」「高野越中」「舞兵庫」「牧野成里」「森九兵衛」の6名は石田三成に、「藤堂良政」は藤堂高虎に、「安井喜内」は浅野幸長に仕えています。

三成に仕えた6名は関ヶ原の戦いに石田軍として出陣し、大山伯耆舞兵庫森九兵衛の3名は討死します。生き延びた大場土佐高野越中牧野成里はその後、それぞれ蜂須賀氏、浅野氏、徳川氏に仕えています。

また、藤堂良政は関ヶ原の戦いに藤堂軍の先方隊として出陣、激戦の後に戦死しています。

安井喜内はその後も浅野家に仕え、大坂夏の陣に徳川方として出陣しています。かつて同じ主君に仕えた男たちが、天下分け目の戦いで敵味方に別れて戦ったことを思うと、胸が詰まるような思いがします。

8名ともに秀次以後に仕えた主に忠誠を誓っているところを考えると、若江八人衆とは忠義心の強い集団でもあったと言えそうですね。

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この記事のまとめ


豊臣秀次切腹という戦国の悲劇を考えるにあたり、石田三成が首謀者のように言われていますが、どうやら真相は異なるようですね。

秀次と三成の関係と切腹事件については以下のようにまとめることができます。

・豊臣秀次と石田三成はあくまでも豊臣秀吉を介した事務的関係。個人的な関係はなかった
・豊臣秀次の切腹を石田三成が企てたというのは後世の作り話であると考えられる
・秀次の部下「若江八人衆」のうち6名が石田三成に仕え、その3名が関ヶ原の戦いで討死した


秀次切腹の首謀者と言われる三成ですが、「若江八人衆」のうち6名が彼に忠誠を誓ったことを考えると、本当は人格的にも優れた人物だったのかもしれませんね。


その石田三成の子孫については以下の記事で解説しています。なぜ三成の子孫が青森にいるのでしょうか。興味があれば以下の記事をご覧になってみて下さい。

※参照:石田三成の子孫が青森にいた理由とは?現在の動向も紹介!