現在、大河ドラマで主役となっている真田信繁を輩出した真田家は、戦国の世が終わると二つの家に分かれることとなりました。
その内の一つ、信繁の兄で昌幸の嫡男である真田信之は徳川家の家臣として真田家を存続させていくことになります。

では、その後の真田家はどうなったのでしょうか。

真田信之と稲姫の子供たちを中心にして解説しながら、詳しく見ていきましょう。

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真田信之の子供まとめ!その後の真田家は?


まず、真田信之には6人の子供がいました。

・長男:信吉
・次男:信政
・三男:信重
・四男:道鏡慧端(どうきょうえたん)
・長女:まん
・次女:まさ


このうち、稲姫との間に生まれたのは

・次男:信政
・三男:信重
・長女:まん
・次女:まさ


この4人だと言われています。

長男の真田信吉は清音院殿(真田丸では「こう」と言う名前で登場していますね)との子供、四男の道鏡慧端は稲姫の死後に生まれた子供になります。

そして、信之の跡を継ぎ、信濃松代藩の二代藩主となったのは、次男の信政でした。
では、なぜ次男である信政が父の跡を継ぐことになったのか。

それは、長男の真田信吉が信之の存命中の1635年に死去したからです。

長男であった信吉は40歳で亡くなりますが、この時、初代藩主であった父の信之がまだ存命しており、藩政を行っていました。
また、信吉の長男・熊之助もその3年後にわずか7歳という若さで亡くなったこともあり、熊之助の後見人であった次男の信政が跡を継ぐことになりました。

しかし、父が長く藩政に携わったことにより対立もあったようで、跡を継いだ二年後、信政が亡くなる際には遺言状に信之のことが書かれていなかったとされています。
信政もまた後継がなかなか育たず、後継問題の末、幼い六男が跡を継いでいます。

その後の真田家は、6代目藩主の真田幸弘に後継者が育たなかった事から他家から養子を貰う事になります。このため、真田信之の直系の子孫は途絶えてしまったものの、松代藩は幕末まで残り、明治時代になると当主が子爵の位を授けられています。

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真田信之と稲姫の子供たちのその後は?


では、真田信之と稲姫のその他の子供はどのような人生を歩んだのでしょうか。

まずは三男の真田信重から。

信重は、兄の信政から沼田領1万石を譲られて信濃埴科藩の初代藩主になっています。

当時の日本では、分家ごとに藩がある土地も珍しくありませんでした。
それは真田家でも同じことで、次男の信政も信濃松代藩を継ぐ前は信濃沼田藩の藩主だったのです。

しかし、この信重も後継に恵まれず、信濃埴科藩は信重の代で断絶してしまいます。
埴科藩であった領地はその後、松代藩に還付されました。


また、真田信之と稲姫の2人の娘はどのような人物だったのでしょうか。

現在残っている史料から、以下の事が確認できます。

まずは長女のまんですが、その経歴については、残念ながら高力忠房に嫁いだということ以外が明らかになっていません。

次女のまさは佐久間勝宗に嫁ぎましたが、勝宗が28歳という若さで亡くなったため、真田家のある松代に戻ってきています。その後、父・信之の隠居などに伴い居を移したため、二の丸殿や柴殿といった多くの呼び名が残されています。
また、母の稲姫の二つある墓のうち、武蔵国勝願寺の墓石を建立したという話が残っています。

※参照:本多忠勝の父親はどんな武将?2人の妻やその子孫について!

真田信之の四男、道鏡慧端(どうきょうえたん)とは?


真田信之と稲姫の子供たちについて解説してきました。

稲姫は1620年に亡くなっており、その後は玉川秀政の娘である「右京」という女性が信之を支えたと言われています。

その一方で、信之は1642年に側女に道鏡慧端(どうきょうえたん)という男子を産ませています。
この時、信之は既に76歳。この年齢で子供を作るのは凄いですね(笑)

では、この道鏡慧端とはどのような人物だったのでしょうか。

道鏡慧端は、臨済宗の僧侶です。
13歳の時、信濃国の飯山藩の初代藩主である松平忠倶(まつだいらただとも)から「心に観音を見つけよ」と言われた事を機に仏教に興味を持ち、その3年後に悟りを得たと伝わっています。

その後は江戸での修行を経て飯山へ戻り、この地で正受庵(しょうじゅあん)を開き、座禅の修行を行い続けたと言われています。弟子には「臨済宗中興の祖」と言われる白隠慧鶴(はくいんえかく)が有名で、道鏡慧端は彼を厳しく指導した事でも知られています。

また、道鏡慧端は世俗的な事に興味が無かったようで、かの水戸光圀からの2度に渡る招聘を全て断った事でも知られています。1721年に死去するまでの間、道鏡慧端はその一生を禅の修行に捧げ続けました。

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この記事のまとめ


真田信之と稲姫の子供を中心に、信之の子供たちやその後の真田家について解説しました。

真田信之の子供の時代となると、戦国の世も終わり、江戸幕府の命に各藩主が従い始めた安穏とした時代です。
しかし、信政の後継問題などが見られるところに、「真田の嫡男は代々早世する」という言い伝えの影が垣間見える気がしました。

真田信之は93歳まで生きた事でも知られてますが、こうした子供たちの早世や後継者争いには非常に手を焼いたのではないかと感じますね。

真田家はその後も続き、現代は慶応義塾大学の教授である真田幸俊氏が14代目の当主を務められています。