馬場信春、内藤昌豊、高坂昌信と共に「武田四名臣」の1人に数えられる山県昌景。
北条家の戦いや駿河侵攻、三方ヶ原の戦いなどから、その強さを伺う事が出来ます。
その一方で、主君である武田勝頼の関係は決して良好なものではありませんでした。
この記事では、山県昌景の強さや武田勝頼との関係、その最後について解説します。
山県昌景の強さとその象徴「赤備え」について
山県昌景を語る上で、どうしても触れなければいけないのが彼の強さです。
山県昌景はもともと武田信玄の近習として仕えていました。彼の強さのスタートとなったのは、信濃攻めの功績により騎馬150持の侍大将に抜擢された事に遡ります。
当時の彼の強さを記した史料には「源四郎(昌景の別名)の赴くところ敵なし」とまで言われたとの記載があります。
その後、順調に手柄を挙げて出世していた山県昌景は兄(もしくは叔父)である飯富虎昌の死後、虎昌が率いていた赤備え部隊を引き継ぐことになります。
※参照:赤備えとは?率いた武田信玄の家臣について!
飯富虎昌、そして山県昌景が率いた赤備え部隊は当時大変強く、戦場で赤備えを見ただけで勇猛な武士も震え上がったと言われているのです。その後の昌景は箕輪城攻防戦や今川家との戦い、信玄の西上作戦にも加わり、その強さを果敢に発揮しています。
こうした山県昌景の武勇にあやかろうとしたのか、井伊直政や真田幸村(真田信繁)も昌景と同じ赤備えの部隊を率い、後世にその強さを轟かせています。実際、昌景の家臣達は井伊直政に預けられ、徳川幕府の創業に大きな功績を挙げる事になりました。
※参照:井伊直政の軍事、内政、外交面の能力について解説!
赤備え部隊が最強の精鋭部隊の代名詞として使われるのは、この山県昌景の赤備え部隊がまさに当時最強の部隊だったことに由来します。
山県昌景と武田勝頼の関係は悪かった?
武田信玄の死後、山県昌景は信玄の息子である武田勝頼を補佐することになりました。
しかし、武田勝頼が武田家の家督を相続した後、昌景と勝頼の折り合いは悪くなり、次第に勝頼に疎まれるようになります。
複数の史料でも、長篠の戦いにおいて昌景や馬場信春らが武田勝頼に戦場からの撤退を進言するも、側近の長坂光堅らが決戦を主張し、勝頼も側近の意見に同意した話が出てきます。
この長篠の戦いでの敗北が、この後武田家を衰退させていくことに繋がることになりますので、昌景と勝頼の関係が良好なものであったならば、長篠の戦い以降の武田家の歴史は変わっていたかも…という事を、つい考えてしまいます(笑)
山県昌景の長篠の戦いにおける「最後」とは
山県昌景の最期は、まさに武士らしく戦場で迎えることになります。
その最後の戦いは、長篠の戦いの中でも設楽原決戦と呼ばれる戦いです。この戦いでは、織田・徳川軍の追撃により山県昌景をはじめとする重臣や指揮官の死亡が相次ぎ、武田軍の被害は大変大きなものとなりました。
史料により出撃の時間は異なるものの、山県昌景の隊は武田軍の左翼を担っていた描写が多く、織田・徳川軍との戦いの中で敗退したことも間違いないと思われます。
信長公記などの資料によると、昌景は徳川方に攻撃を仕掛けたものの敵の銃弾を浴びる事に。その際、采配を咥えたまま壮絶な最後を遂げたと伝わっています。
信長側の史料では首級のリストの筆頭に挙げられたり、長篠合戦図屏風では昌景を討ち取った志村光家がその首を敵に取られないよう持ち去る姿が描かれるなど、山県昌景の強さが当時どれだけ名を広めていたのかが伺えます。
この記事のまとめ
山県昌景の人生を追っていくと、その強さが当時いかに恐れられていたか、赤備え部隊がどれだけ敵将にも忠告されていたのかということが分かります。長篠の戦いの戦いで陣没した昌景ですが、その最後も壮絶なものであったと言われています。
その一方で、主君である武田勝頼やその側近との関係は良くなかった事でも知られていました。
個人的には、信玄時代の重臣よりも自らの側近を重用したかった勝頼の意向があるのでは…と思うのですが、実際はどうだったのでしょうか。
なお、こちらの記事では山県昌景の子孫や、「身長が低かった」という彼の意外な一面について触れています。
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※参照:山県昌景の身長や居城の江尻城について。子孫はいるの?